アーニス/エスクリマと神秘主義(2)

アーニスの文化
1932年の創設以来、合理的なアーニスを追求し続ける、ドセ・パレスの練習風景。

前回は、アンティン・アンティンとオラションとは何なのか、その役割と現状について書きました。

今回は、アンティン・アンティンやオラションが実際の戦いでどのように使われたのか、どうして神秘主義がアーニスからなくなったのかについて書いてみます。

アントニオ・イラストリシモとオラション

アントニオ・イラストリシモは、オラションの力を信じたエスクリマドールでした。彼は、自己宣伝が上手な武術家だったため、今から紹介する話がどこまで事実であるかはわかりませんが、オラションが戦いのなかでどのように使われたのかを示すエピソードなので、ここで紹介してみます。

イラストリシモは、仕事を求めて町から町へと放浪する武術家でした。ある町で働いているとき、そこにバスケスというならず者の3兄弟がいました。彼らは地元では警察官を殺したとも噂されており、実際、警察官も彼らを見ると道を避けて通るほど恐れらていました。

あるフィエスタのときに、バスケス兄弟のひとりが博打でいかさまをしているのをイラストリシモが捕まえると、その男は恐怖のあまり窓から川に飛び込んで逃げ、立ち去り際に「戻ってきて、お前を殺してやる。」と叫びました。数時間、逃げ出した男は、残りの兄弟2人を連れてイラストリシモのところに戻り、外に出るよう叫びました。

まわりが止めるのを聞かず、イラストリシモがボロを抜いて外に出ると、兄弟の2人が前に、1人が後ろに回り込み、イラストリシモを取り囲みました。イラストリシモが、心のなかでオラションを唱えると、見えない壁が周りにでき、後ろの男が拳ほどの大きさの石をいくつも投げても、イラストリシモまで届かなかったり、壁にはねかえされたりしました。

イラストリシモが前進し、ひとりの男の親指を斬り落とし、もうひとりの方を向くと、兄弟はみないっせいにその場を逃げ出したそうです。

ブレードの使い方を披露する、イラストリシモの高弟、ロメオ・マカパガル(左)。

イラストリシモは晩年までオラションの信奉者であり、聖金曜日には、オラションを書いた紙を的にして高弟のロメオ・マカパガルに銃で撃たせ、オラションの力を見せつけたそうです。

マカパガルと彼の2人の子どもは、射撃が得意でしたが、5メートルの距離から、オラションの書かれた20cm×28cmの紙を撃ってもまったく当たらず、3メートルに近づいてようやく紙の端をかする程度だったそうです。「どのようなメカニズムかはわからないが、オラションには効果があった。」とマカパガルは語っています。

それに対し、同じくイラストリシモの高弟でバハド・ズブの創始者、ユリ・ロモは、「私はオラションを信じているが、それよりも実用的な技術を重視する。」、「聖書には、守護天使がいて私たちを守っていると書いてあり、私はそれを信じている。しかし、オラションを使えば、相手が私を打てなくなる。というのは別の話だ。」と語っています。

イラストリシモの弟子たちのなかでも、オラションに対する見解はさまざまあるようです。

パブロ・アリカンテとアンティン・アンティン

アンティン・アンティンに関する最も有名なエピソードは、なんといっても、1933年に行われたパブロ・アリカンテとドーリン・サアベドラのバハドでしょう。このバハドは有名なため、試合展開にはいくつかのバージョンがありますが、神秘主義の観点から一番面白いストーリーを紹介します。

これは1933年にセブのアルガオ市の後援で行われた、セブ最強のエスクリマドールを決めるバハドでした。当初はセブ最強といわれたリテラダ・スタイルの使い手、イスラオ・ロモとアリカンテが戦う予定でしたが、夫が死ぬのを恐れたロモの妻が、試合を止めるよう泣いてロモに懇願したため、対戦相手がドーリンへと変更になりました。

創設したばかりのドセ・パレスの名を高めるにはいい機会だと思った創始者のロレンソ・サアベドラは、総裁のヨーリン・カニエテに、アリカンテについて調べるよう頼みました。

アリカンテは、山の中に住む隠者で、ヘビや猿を捕まえて売ることで生活していました。ヨーリンがアリカンテを訪ねていくと、アリカンテはヨーリンの目の前でオラションを唱えながらスティックでバナナの木を打ち、一撃でその木を倒してしまいました。オラションの信者だったヨーリンは、アリカンテのオラションの強さに驚愕しました。

結成当時のドセ・パレスの写真
結成当初のドセ・パレスの写真。前列右から3番目がロレンソ。2列目左から2人目がドーリン。

当日の試合はバハドの通例どおり3ラウンド制で行われましたが、試合が始まると、ドーリンが固まったまま動かなくなりました。これはアリカンテのアンティン・アンティンの力によるものでした。すぐにアリカンテは強烈なストライクをドーリンの頭に打とうとしますが、セコンドのロレンソが「バンタイ(守れ)!」と叫び、ドーリンがアンティン・アンティンの力から抜け出すと、かろうじてアリカンテの攻撃をブロックしました。

その後もアリカンテの猛攻撃が続き、ドーリンはなんとかそれらを防ぎますが、結局1ラウンド目はアリカンテが取りました。

2ラウンド目が始まると、今度はドーリンが猛攻撃を仕掛け、アリカンテの頭や体に何度もストライクを当てますが、アリカンテのアンティン・アンティンの力は強く、アリカンテがポケットからハンカチを取り出して黒ずみを吹くと、黒ずみは何もなかったかのように消てなくなりました。

その後も両者の激しい攻防が続きますが、アリカンテからの精神的プレッシャーを受け続けたドーリンは、フラストレーションを抱えたまま2ラウンド目を終えます。

しかし、アリカンテの口に何かが入っていることに気づいたロレンソが、それがアンティン・アンティンに違いないと推測し、アリカンテの口のなかのものを吐き出させるようインターバル中にドーリンに指示しました。

3ラウンド目が始まると、両者が激しい攻防を繰り広げますが、スキを見つけたドーリンがアリカンテの口を打ちました。その衝撃でアリカンテが口のなかのものを吐き出すと、それは十字架にかけられたイエス・キリストの像でした。

すると、アリカンテは口から血を吹き出し、ハンカチで消された黒ずみが、頭や全身に浮かび上がってきました。ドーリンは、すぐさま前進し、猛攻撃を仕掛けると、ダメージが出たアリカンテは、もはやドーリンの攻撃を防ぐことができず、両手を挙げて降参しました。

レフリーが両者に割って入り、ドーリンの手を挙げると、アリカンテもいさぎよく負けを認めました。この勝利によって、ドーリンはセブ最強、ひいてはフィリピン最強のエスクリマドールとなり、創設間もないドセ・パレスの評判はフィリピン全土に知れ渡りました。

アーニスの世代交代

このバハドの話にはいくつかのバージョンがありますが、どのバージョンでもアリカンテはアンティン・アンティンやオラションの力を操るエスクリマドールとして描かれています。また、ドーリンのセコンドについたモモイ・カニエテがオラションを唱えてドーリンを援護したというバージョンもあります。当時の人びとには、エスクリマドールは誰もがアンティン・アンティンやオラションの力を操るというイメージがあったのでしょう。

アリカンテは山奥に住む隠者ということでしたが、フローロ・ビリャブリェの師、盲目のモロの王女は、人が到達できないような山奥に住んでおり、心の目でビリャブリェの攻撃を観ることができる達人でした。また、ビリャブリェの練習仲間のフェリキシモ・ディゾンの師は、高い崖をよじ登り、サメのいる海を渡り、水中洞窟をくぐり抜けた洞窟の奥に住む隠者でした。当時の人びとは、アーニスの達人は「人里離れた奥地に住み、不思議な力を持つ」というイメージも持っていたようです。アリカンテはまさに、古いアーニスを象徴する人物でした。

アリカンテと戦った側のドセ・パレスの総裁、ヨーリン・カニエテもオラションの信者でした。エドガー・スリティが1980年代後半に行ったインタビューでは、ヨーリンはオラションについて、「私はかっては信じていた。1911年、私はメスティーソ(スペイン人とフィリピン人の混血)のエスクリマのマスターに会った。彼は目が落ちくぼんでいて、長髪で、常にオラションを唱えていた。彼を一目見ると誰もが恐怖を植えつけられた。」とイエス・キリストを連想させるような人物が不思議な力を発揮していた様子を語っています。

アーニスの世界からそのような古い考えを一掃したのはほかならぬドセ・パレスでした。ロレンソ・サアベドラの指導の下、当時最先端のアーニスを練習するドセ・パレスでは、ストライクを12種類に分類するとともに、フットワーク、ボディ・メカニクス、ブロックなども細かく分類し、このストライクに対しては、このフットワークとこのボディ・メカニクス、このブロックを組み合わせてカウンターを返すといった合理的な指導法が確立されていました。(その原型はスペイン軍で指導されたエスグリマにありました。)

また、合理的な指導法に加え、最新の技術「コルト」にコンバット・ジュードーを加えて様々なディスアームを開発したり、コルト・オリヒナルに改良を加えてコルト・リニアルやコルト・クルバダなどの新たなスタイルも開発していきました。そしてその合理的な指導システムと技術は、フィリピン各地に広まり、古いアーニスのシステムや考えを淘汰していきました。

バハド・ズブを指導する、アントニオ・イラストリシモの高弟、ユリ・ロモ(右)。

長年に渡ってオラションの信者であったヨーリンもスリティのインタビューで、「最近オラションに対する考えを改めた。過去6回のトーナメントで、我々はオラションを唱える相手と戦った。我々はオラションを唱えなかったが、やすやすと彼らを打ち破った。」と語っており、息子のディオニシオがアーニスをスポーツ化したことで古い考えが変わり、その結果、「トレーニングや技術に頼るほうがずっといい。」、「勝つためには技術を磨くべきだ。」との合理的な考えを持つに至りました。

そして、イラストリシモの高弟のユリ・ロモが、「私はオラションを信じているが、それよりも実用的な技術を重視する。」、「オラションを使えば、相手が私を打てなくなる。というのは別の話だ。」と語るように、ヨーリンやイラストリシモの次の世代では合理的な考えが当たり前となり、アンティン・アンティンやオラションの力を信じる者などもはやいなくなりました。

そういう観点から見ると、1933年に行われたパブロ・アリカンテとドーリン・サアベドラのバハドの話は、その前年に創設されたばかりで、合理的なアーニスを追求するドセ・パレスが、迷信にとらわれた古いアーニスを淘汰するという、アーニスの世代交代の始まりを象徴する話だといえます。

参考資料

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