「カリ」の歴史 発展編

マドリデホス要塞の写真 「カリ」についての考察
スペインがバンタヤン島の北端に築いた、マドリデホス要塞の遺跡。

前回にひき続き「カリ」についてまとめてみます。今回はヤンバオが創作した「カリ」がどのように発展したかについて書いてみます。

フローロ・ビリャブリェ

以前のブログ、「モロの歴史」で勇猛果敢なモロの歴史を紹介しましたが、このミンダナオ・スールーのモロの不屈の精神や勇猛さを自分の武術の普及に利用したのがセブ出身で後にアメリカに渡ったフィリピン武術家、フローロ・ビリャブリェでした。

セブ島の北端にある離島、バンタヤン(監視)島はその名前が示す通り海賊を監視するための島でした。ミンダナオ島のコタバトやスールー諸島のホロ島を出発したモロの海賊は、バシラン海峡を通って北上し、セブ島西岸を通過したあと、バンタヤン島の北端を経由してから南下し、セブの東岸を襲撃したからです。

そのためこの島の各地にはスペイン人宣教師の監督の下に多くの監視塔が築かれ、さらに島の最北端のマドリデホスにはスペイン軍の要塞が築かれました。このような環境のため、この島では当然、昔からアーニスが練習されており、今でも「ジャベ・カデナ」と「ギヌンティン」の2つのスタイルのアーニスが島に伝わっています。

自宅で “Cebuano Eskrima” の自分の記事を読むロット・ビリャブリェ。

1912年生にセブのバンタヤン島で生まれたフローロ・ビリャブリェは、地元でこのギヌンティンとジャベ・カデナ・スタイルの「アーニス」を学んでいます。フローロのいとこで、今もバンタヤン島でジャベ・カデナとギヌンティン・スタイルのアーニスを伝えるロット・ビリャブリェによれば、フローロに「アーニス」を教えたのは父のベアト・ビリャブリェであり、フローロは1930年代にハワイには渡って、そこでアーニスのチャンピオンになっているそうです。

また、フィリピン武術研究家のマーク・ワイリーによれば、ビリャブリェは1940年代にマニラのトンド埠頭でイラストリシモ・エスクリマの創始者でおじの、アントニオ・イラストリシモや、デクエルダス・エスクリマの創始者、フェリキシモ・ディゾンなどとアーニスの練習をしていたそうです。

イラストリシモもビリャブリェと同じバンタヤン島の出身(正確にはイラストリシモはバンタヤン島の 離島のキナタルカン島出身)で、島に伝わるジャベ・カデナとギヌンティン・スタイルのアーニスを学んでいるので、マニラでいっしょに練習するのは不思議な話ことではありませんが、その話が正しければ、ビリャブリェがアメリカに渡ったのは40年代以降ということになります。(船員としてマニラとハワイを往復していた可能性もあります。)

渡米の時期がいつだったにせよ、カコイ・カニエテやマーク・ワイリーなどが指摘しているように、アメリカに渡ったビリャブリェが、自分のアーニスに「カリ」という名前を付けて指導したのが「カリ」の始まりだというのには間違いはないでしょう。

「カリ」の真実

ヤンバオは著書のなかでフィリピン各地に伝わる武術の名称を比較しましたが、ビリャブリェもその名称の比較をそのまま踏襲していることから、ビリャブリェの創始した「カリ」はヤンバオが創作した「カリ」がもととなっていることは明らかです。しかし、ビリャブリェはヤンバオよりもさらに具体的な「カリ」の起源についての伝説を創作しました。その伝説をまとめると以下のようになります。

  1. フィリピン南部のモロには昔からカリと呼ばれる武術が伝わっており、アーニスやエスクリマ、シカラン、シラット、クンタオ、カリラドゥマン、パグカリカリなどのフィリピンの武術はすべてカリから分かれたものである。(マザーアート説)
  2. ビリャブリェはフィリピン各地を回り武術の修行をし、サマール島のグンダリで盲目のイスラムの王女・ジョゼフィーナからカリを学んだ。
  3. カリという言葉はビサヤ語の”KAMOT”(手)と”LIHOK”(動き)の頭文字をとった複合語である。
  4. 太平洋戦争後、武術家はみんなアメリカに移住したため、フィリピンにはもう武術家は残っていない。

1 についていえば、シラットはインドネシアのスマトラ島やマレー半島などのマレー文化圏に起源を持つインドネシア、マレーシアの武術であり、クンタオは漢字で「拳道」と書くように、インドネシアに移住した福建華人の間で練習されていた、中国起源の武術です。双方とも同じイスラム圏であるフィリピンのミンダナオ島やスールー諸島、パラワン島南部には古くから伝わっていますが、フィリピン発祥の武術とはいえません。

また、シカランは、ルソン島リサール州バラスに伝わる、相手の体に足を当てたら勝ちとなる、農閑期の水田で行われたゲームです。1950年代にシプリアーノ・ヘロニモが日本の空手を取り入れて武術として再構築したものであり、こちらもモロの武術とは何の関係もありません。

2 についていえば、スペインがマニラに拠点を確保したあと、1578年にサンデ総督がブルネイに遠征したことで、ビサヤ地域のイスラム勢力は一掃されているので、フローロの時代にサマール島にモロの王女などがいるわけがありません。また仮にいたとしてもムスリムの王女がジョゼフィーナなどという西欧風の名前であるはずがありません。

3 についていえば、モロの地域に起源を持つ武術の名称がどうしてマギンダナオ語やマラナオ語、タウスグ語、イラヌン語などのモロの言葉ではなく、ビサヤ語の”KAMOT”と”LIHOK”の複合語なのか、さらには333年の間、一度もスペインの支配を受けなかったモロの武術「カリ」の技術用語にどうしてモロの言語が一切使われずに、スペイン語やビサヤ語が使われているのか不思議でなりません。実際には「カリ」はヤンバオが、「短刀」を意味する古語の ”Kalis” からヒントを得て考えた出した言葉であり、それにビリャブリェが後付けで ”KAMOT” と”LIHOK”の言葉を当てただけだのものだと思われます。

4 についていえば、ビリャブリェがこの説をアメリカで広めていた1970年代は、フィリピンでは、NARAPHIL(フィリピン国家アーニス協会)や SEA(セブ・エスクリマ協会)が設立され、セブやマニラでトーナメントが開催された時期であり、国やエスクリマドールたちが、アーニスをスポーツとして確立しようと一生懸命努力していた時期です。フィリピンに武術家がいないなど、馬鹿げたを通り越した、悪質な作り話です。

後にビリャブリェの創作した伝説がアメリカで広まるにつれ、「カリ」はスペインと戦った不屈のモロの武術として信じられるようになりましたが、実際にはビリャブリェが伝えた「カリ」はその反対で、モロと戦うためにクリスチャン・フィリピノがスペイン人から教わって創始した武術「アーニス」だったのでした。ビリャブリェの「カリ」の技術用語のほとんどがスペイン語なのもそのためです。

北部、中部のフィリピン人がスペインの支配に屈するなかで、スペインの侵略を繰り返し撃退し、スペインに1度も屈することのなかったモロの歴史はフィリピンの誇りであり、勇猛果敢なモロの戦士はクリスチャン・フィリピノの武術家にとっては憧れでもありました。ビリャブリェが自分の武術に箔をを付けるため、「モロの武術」という伝説を創始したのも理解できないことではありません。

東洋の武術では自分の流派に威厳や神秘性を持たせるために神話や伝説などを利用することが多くありますが、ビリャブリェも自分の流派を創始したとき同じことをしたのでした。

参考資料

  1. Wiley M. V. (1997). Filipino Martial Culture. MA. Tuttle Publishing.
  2. Inosanto, D. & Johnson, G. (1980). The Filipino Martial Arts. CA: Know Now Publications.

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