「カリ」の歴史 定着編

イチゴ農園の写真 「カリ」についての考察
カリフォルニアのイチゴ農園。このような農園で、多くのフィリピン人が過酷な労働に従事した。

前回にひき続き「カリ」についてまとめてみます。今回はビリャブリェが創作した「カリ」がどのようにアメリカで定着したかについて書いてみます。

フィリピン・コミュニティーと「カリ」

1898年の米西戦争の結果、フィリピンはアメリカの統治領となりました。フィリピン人のアメリカへの移民は1906年から始まりましたが、1907年に日本とアメリカの間で日米紳士協定が結ばれ、日本からアメリカへの移民が禁止されると、不足した労働力を補うために、ハワイの砂糖キビ畑やパイナップル農園で農業労働に従事する フィリピン人が増加しました。

1920年代からは労働力不足のカリフォルニアに渡る者も増え、1930年にはカリフォルニア州に居住するフィリピン人の数は3万人を超えました。それらの移民のほとんどがカリフォルニア内陸部の街・ストックトンに集まり農業労働に従事したため、ストックトンは最盛期には「リトル・マニラ」と呼ばれるほどのフィリピン人居住者を抱える街となりました。

移民の中にはエスクリマール(アーニスの使い手)も多くおり、故郷を離れたアメリカの地でもアーニスの練習を続けました。しかし当時のアーニスの練習は外部に対し全く秘密にされていました。フィリピン人以外の外国人に対して秘密であったことはもちろんですが、同じコミュニティーのフィリピン人にさえも秘密にされていました。

1936年にストックトンで生まれたフィリピン武術家、ダン・イノサントは幼少のころ、おじのビンセント・エバンへリスタから柔術や柔道、沖縄手の手ほどきを受けましたが、このおじが高名なエスクリマドールだと知ったのは成人して自身もアーニスを学ぶようになってからだと語っています。当時は身近にいる人や身内がエスクリマドールであることを知らないことは珍しいことではなかったそうです。

本土から離れたハワイでも状況は同じで、フローロ・ビリャブリェの弟子のベン・ラーグサは、初めてビリャブリェから「カリ」を習ったときに、ここで教わったことは自分の子ども以外には絶対に教えないように約束させられたと語っています。

ストックトン出身のエスクリマドールの多くがその当時の思い出として、パレットを高く積み上げた倉庫の陰や人のいない果樹園の奥などで、誰にも見られないようにしてアーニスの練習を行なっていたことを語っています。

しかし1960年代半ばごろからそのような状況が少しずつ変わっていきました。1964年にロングビーチで開催された国際空手選手権でベン・ラーグサが初めて「カリ」の演武を行うと、1966年にアンヘル・カバレスがストックトンにセラダ・システムの道場を開き、1966年にはレオ・ヒロンがトレイシーにラルゴマノ・システムの道場を開きました。

1970年代に入ると、アメリカの武術団体から招待を受けたり、アーニスの人気が出てきたアメリカで一旗揚げることを夢見て、多くの武術家がフィリピンからアメリカにやって来ました。彼らは、フィリピン人コミュニティーの慣習にこだわることなく、コミュニティーの枠を越えて、アメリカ各地でアーニスの普及活動を行いました。フローロ・ビリャブリェがダン・イノサントと初めて会ったのもこのころのことです。

イノサントは、2010年にアメリカ国立歴史博物館で行った講演会で、初めてビリャブリェと会ったときにビリャブリェから、「おまえはなぜ、エスクリマやアーニスという言葉を使うのか?」と問われ、「私の先生たちが使っているからです。」と答えると「エスクリマやアーニスはスペインの言葉だ、これからはカリという言葉を使えこれこそが正しい呼び名だ。」といわれたと語っています。

イノサントは、ビリャブリェのいうことに素直に従い、それからは「カリ」という言葉を使うようになったそうですが、イノサントだけでなく、イノサントの先生たちや、アメリカでアーニスを教える多くのマスターたちも、ビリャブリェの推奨する「カリ」という名称を受け入れたようです。

イノサントによると、70年代初頭にはすでに、アメリカのフィリピン武術家たちの間で、名前に関する論争があったようですが、ビリャブリェの「カリ」が受け入れられた背景には、アメリカ人に対し、スペイン由来の武術ではなく、フィリピン独自の武術をアピールしたいという思いが、武術家たちにあったと思われます。

そして、そのベースにはヤンバオが主張したフィリピン古来の武術、「カリ」が、フィリピン・コミュニティーのなかですでに広まっていたことがあると思われます。

イノサントが ”THE FILIPINO MARTIAL ARTS” を執筆するときに、そのタイトルについて父親から「カリダダマンは使うな、カリロンガンは使うな、パグカリカリは使うな。」と注意されていますが、「カリラダマン」や「カリロンガン」「パグカリカリ」は、ヤンバオが「カリ」の実在に信憑性を持たせるために、辞書のなかから探し出した「カリ」に類似する言葉です。イノサントの父親も知っていたくらいですから、武術家でこれを信じた者は多くいたと思われます。

アメリカで広まる「カリ」

70年代以降、アーニスが一般のアメリカ人に公開されるようになり、フローロの創作した伝説もマスコミなどでたびたび紹介されるようになると、アメリカ人の間に「カリ」の伝説が広まっていきました。しかしこの伝説が爆発的に広まったのは1980年にダン・イノサントが ”THE FILIPINO MARTIAL ARTS” を出版してからでした。

フローロ・ビリャビリェ、ベン・ラーグサの両マスターに師事したことのあるイノサントが著書の中でフローロが創作した「カリ」の伝説を紹介すると、多くのアメリカ人が「分派のアーニスやエスクリマではなく、マザー・アートである『カリ』を教えてほしい。」とフィリピン人のマスターたちに頼むようになりました。

フィリピン人のマスターたちもビリャブリェのいう「カリ」がアーニスやエスクリマにすぎないことを知っていましたが、名称にこだわることなくアメリカ人に「カリ」を教えました。また道場運営の利便性を考えて自分の流派の名称をアーニスやエスクリマから「カリ」に変える流派も出てきました。ぺキティ・ティルシア・アーニスがペキティ・ティルシア・カリに、イラストリシモ・エスクリマがカリ・イラストリシモに変えたのがその例です。

アメリカでアーニスを普及させたい、アーニスで成功したいと考える武術家にとって、アーニスをより魅力的に見せる、ビリャブリェの語る「カリ」の歴史は、アーニスの宣伝には最適だったのでしょう。

「コルト」。触れただけで斬れるブレードではできない、スティックを使った接近戦の技術。

その結果、スペイン式フェンシングに由来するエスパダ・イ・ダガや、20世紀入り、使用する武器がスティックになったことで生まれたコルト(接近戦)の技術を練習し、技術用語のほとんどがスペイン語やビサヤ語という、モロのブレード・ファイティングの要素がまったく見られない、「南部のモロに伝わるマザーアート『カリ』」がアメリカで広まっていきましました。

そして1980年代以後、アメリカで「カリ」が急速に普及した結果、フィリピンではだれも名前を聞いたことがない武術がフィリピン武術としてアメリカで定着するという不思議な現象が起こりました。

人々の間で伝統的だと思われているものが、実は近代になって人工的に創り出されたものであるということはよくあることですが、「カリ」もそのひとつだといえます。「カリ」とは、ヤンバオが創作した伝説の上にビリャブリェの創作した伝説が重なり、アメリカ人の間で繰り返し語り継がれていく間に、「南部のモロに伝わるフィリピン古来の武術」としてアメリカで定着したものなのです。

参考資料

  1. Wiley M. V. (2001). Arnis: Reflections on the History and Development of Filipino Martial Arts. VT. Tuttle Publishing.
  2. Inosanto, D. & Johnson, G. (1980). The Filipino Martial Arts. CA: Know Now Publications.

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