モロの歴史(1)

イントラムロスの写真 フィリピンの歴史
イントラムロス。1606年、マニラに築かれたスペイン支配の拠点。

ビリャブリェやイラストリシモの話には「モロ王女からカリを教わった。」とか「モロの武術家と戦って勝った。」とか、モロがひんぱんに出てきます。彼らはどうしてモロにこだわったのでしょうか?

それを探るために、今回はモロの歴史について書いてみます。モロの歴史はアーニスの成立とも深く関わっているので、今回から2回に渡って詳しく説明していきます。

モロ戦争の始まり

フィリピンの地図

ビサヤ諸島の南にあるフィリピン2番目の大きさの島がミンダナオ島で、そのミンダナオ島と、ミンダナオ島の西にあるボルネオ島の間に連なる小さな島々がスールー諸島です。

スールー諸島には、1380年ごろにアラブ人宣教師によってイスラム教が伝えられたといわれており、1457年にはホロ島にスルタンを置くスールー王国が成立しています。また、ミンダナオ島でも16世紀の終わりごろまでに、ほとんどのダトゥ(首長)がイスラム教に改宗しており、プランギ川中流のブアヤンのダトゥや河口のマギンダナオのダトゥは、ミンダナオの主要な勢力として台頭していました。

スペインがフィリピンに進出した16世紀には、ブルネイがフィリピン各地にイスラム教の宣教師を派遣していたため、フィリピンの北部や中部にもイスラム教は広まっていました。交易港として栄えたマニラには、1500年ごろにはすでにムスリムのダトゥが誕生しており、16世紀後半にはブルネイの王室と婚姻関係を結び同盟関係にありました。

1571年、初代総督のミゲル・ロペス・デ・レガスピは、ダトゥ・ソリマンが守るマニラの要塞を陥落させ、マニラを植民地支配の拠点と定めました。そして、1578年、3代総督のフランシス・デ・サンデは、みずから船40隻、乗組員2000人の大艦隊を率いてプルネイに遠征し、ブルネイを屈服させました。これにより、フィリピンの北部と中部からイスラム勢力は駆逐されました。

さらにサンデは、南部のミンダナオ・スールー地域の支配を目指し1578年、1579年、1596年と3度にわたりミンダナオ島のコタバトとスールー諸島のホロ島に遠征隊を派遣しました。これが19世紀半ばまで続くモロ戦争の始まりです。

マギンダナオ王国とスペイン

16世紀末、ミンダナオ島南西部、コタバトのマギンダナオ王国は、ミンダナオ島の南にある、マルク諸島(現インドネシア)のテルナテ王国と同盟関係にあり、マギンダナオの水軍司令官、ブイサンはテルナテの王宮からクチル(マレー語で「小さい」、転じて「若武者」の意味)の称号を与えらるほどの有能な指揮官でした。

スペインの侵攻に対し、ブイサンは、同盟国のテルナテやスールーの援助を受け、スペイン軍をすべて撃退しました。このときテルナテは、兵士だけだなく船大工や鍛冶屋、聖職者までマギンダナオに送っており、イスラムの導師が勇敢に戦う姿にスペイン軍の将校は驚いています。

1596年、サンデ総督からモロ討伐に派遣されたフィゲロアは、船50隻、スペイン人兵士256人、ビサヤ人兵士1500人を率いてコタバト河口に到着しました。マギンダナオは、すでに村々に城を築いて待ち伏せしており、スペイン軍が上陸するとすぐに奇襲をかけました。ぬかるみに進軍を止められたフィゲロアは、モロのカンピラン(長刀)に一刀両断され、運ばれた船内で戦死しましています。以来、スペインはモロのカンピランをひどく恐れ、逆にモロは、スペインとの交渉のときには、抜身のカンピランを持った兵を林立させたそうです。

スペインの侵攻に対しブイサンは、スペイン軍兵士の供給地であるビサヤ諸島の沿岸部を襲撃し、住民を略奪することで抵抗しました。当時のスペイン軍は、兵士の8人中7人はビサヤ人であったことから、住民を略奪すれば、スペイン軍の兵力を弱めることができたからです。

1599年、マギンダナオ水軍は船50隻、兵士3000人でパナイ島、セブ島、ネグロス島を襲撃し、集落を襲い、教会を焼き、捕虜800人を捕らえ、以後毎年、偏西風を利用して遠征艦隊を送り出し、1600年には船70隻、兵士4000人でパナイ島を襲撃しています。

1602年、ブイサンは、テルナテ、サンギル、バシランの援軍を得て大艦隊を編成し、ミンドロ島からカラミアン、ルソン島の近くまでを襲撃しました。途中で出会った船からスペイン人隊長、宣教師、女性を捕虜にし、村々では金目の物を奪い、人間を捕虜にし、村を焼き払いました。ブイサンの部隊だけでもスペイン人10人を含む800人の捕虜を獲得しています。

1603年の遠征では、ブイサンひとりで船50隻を率いてレイテ島を襲撃し、教会を焼き、人質を奪い、ネグロスのダトゥたちを集め、ともにスペインと戦うことを誓わせたと、イエズス会の神父が記録しています。

1935年、フアン・デ・チャベスが、スペイン人300人、ビサヤ人1000人を率い、激戦の末、ザンボアンガを占領して要塞を築くと、スペインはここを拠点にマギンダナオやスールーに遠征隊を派遣しました。

1638年、22代総督、セバスチャン・ウルタド・デ・コルケラは、マギンダナオを攻撃して成果をあげますが、39年、40年のラナオ湖周辺での戦いでは全滅に近い惨敗をしています。このときのマギンダナオは、ブイサンの息子、クラダットの代になっており、クラダットは、戦争だけでなく、南からフィリピンをうかがうオランダを味方につけてスペインをけん制するなど、硬軟織り交ぜた政策でスペインを翻弄しました。

1641年にマラッカ王国を滅ぼしたオランダが、翌年、台湾からスペインの勢力を追い払うと、スペインは、北からのオランダの侵攻に備えて北方のマニラに兵力を移すため、1645年、マギンダナオと和平条約を結びました。これにより、マギンダナオ王国の主権は、国際的に認められるようになりました。

しかし、10年後にマギンダナオで行われた和平条約の延長交渉の席で、ザンボアンガ教区司祭を17年務めた、イエズス会のアレハンドロ・ロペスが、ミンダナオ島での布教活動をしつこく要求すると、それに激怒したクダラットはロペスを殺し、ジハード(聖戦)を発動しました。これにより、ビサヤ諸島は再びモロの海賊の襲撃を受けるようになります。

スールー王国とスペイン

マギンダナオ王国と違いスールー王国は、農地が少なく、昔から奴隷貿易が主要な産業となっていました。米を生産できないスールーでは、人びとは奴隷と引き換えに米を手に入れることで生活していたのでした。そして、16世紀当時、奴隷の最大の買い手は、香辛料の生産に大量の人手を必要とするオランダでした。

1569年、レガスピは、ビサヤ諸島を荒らし回っていたホロ島とボルネオ島の海賊を討伐し、翌年にもミンドロ島付近でホロ島の海賊を討伐しました。しかし、この当時の海賊活動は通常の産業としてのものであり、スペインに対抗するものではありませんでした。

サンデ総督がブルネイに遠征した1578年、フィゲロアは、ホロ島を襲撃し、スルタンに海賊行為の中止を要求しました。産業である海賊行為を止めることはできないため、スルタンがこれを断ると、フィゲロアは兵を上陸させ、ホロ島を占拠し、スルタンにスペインに臣従することを誓わせました。もちろんこの約束は、フィゲロアがホロ島を去った瞬間に破られます。

1602年、ビサヤ諸島に対するモロの海賊活動が活発になり、それがマニラにまで近づくと、スペインは、ガリィナトを隊長とする遠征隊をホロ島に派遣しました。200人のスペイン人と大勢のビサヤ人を乗せた船団は、4か月分の食料を積みホロ島に向かいましたが、スルタンはマギンダナオ、ボルネオ、テルナテの援軍を得て、スペインと激戦を繰り広げ、食料が尽きたガリィナトは3か月後にホロ島を去っていきました。

スールーは、1616年、17年、25年、27年にスペインの造船所を襲い、1回に100人の労働者を殺し、400人を捕虜にして、スペインの軍事活動に打撃をあたえますが、それに対し、スペインも1626年から29年にかけて、そして1630年にスールーに遠征隊を送っています。それら遠征隊はスペイン人が100人から350人、ビサヤ人が1000人から2000人という大部隊でしたが、いずれもホロ島の堅い守りと嵐により撃退されました。

1635年にザンボアンガに要塞を築いたスペインは、38年、スペイン人600人、ビサヤ人1000人でスールーの首都、ホロ島を攻撃しました。スルタンのラジャ・ボンスは、4000人の兵とバシラン、マカッサルの援軍で反撃しますが、3か月後には降伏して逃亡します。

しかし、スルタンの息子がオランダに助けを求めると、1645年、オランダはホロ島に艦隊を送り、スペイン軍に3日間砲撃を加えました。スペイン軍は、無傷でスールーから撤退しましたが、台湾問題に対処するため、北方に兵力を移す必要から、1648年にスールー王国と和平条約を結びました。

参考資料

  1. 池端雪浦 編集(1999)「東南アジア史Ⅱ 島嶼部」 山川出版社
  2. 鶴見良行(1994)「マングローブの沼地で 東南アジア島嶼文化論への誘い」朝日新聞社
  3. 門田修(1990)「海賊のこころ―スールー海賊訪問記」筑摩書房.

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