アーニス/エスクリマの技術の変遷(1) 

エスパダ・イ・ダガの写真 アーニスの技術
サンミゲル・エスクリマのエスパダ・イ・ダガを演武するフェデリコ・メンドーサ ・ジュニア(左)。

アーニスの技術は時代とともに少しづつ変化して現在に至っています。今回は、スペイン統治時代にブレード・ファイティングとして生まれたアーニス/エスクリマが、どのようにしてスティック・ファイティングへと変化していったのかについて書いてみます。

2つのエスパダ・イ・ダガ

20世紀以前のアーニスは、モロの海賊と戦うための技術でした。スペインがフィリピン統治を開始した当初、スペインは積極的にミンダナオ・スールーに遠征隊を派遣しモロ討伐を行っていました。しかし、北部、中部の沿岸部への海賊の襲撃があまりにも頻繁に起こるようになると、スペインの軍事費の負担は膨大になり、海賊への対応が十分に行えなくなりました。

そのためスペインは、18世紀になると、モロの海賊に対する防衛を現地人に義務付ける方針に転換し、それをスペイン人宣教師に監督させることにしました。ビサヤ地方では、イエズス会の宣教師たちが現地人を動員して、見晴らしの良い場所に監視塔を築いたり、住民が避難できる石造りの教会を建設しました。

エスグリマの絵
18世紀の剣術書に描かれたスペイン式レピア&ダガ。現代アーニスの「クルサダ」と全く同じ技である。

また、元軍人の宣教師たちは現地人にスペイン剣術の「エスグリマ」(esgrima)、または「アルマス・ブランカス」(armas blancas)の技術を指導し、後にそれらの技術に現地人の工夫が加わって「エスクリマ」(eskrima)や「アーニス」(arnis)が生まれました。

アルマス・ブランカスが「白い武器」、つまり刀を意味するように、海賊と戦っている時代のアーニスの武器は刀であり、右手に刀、左手にナイフを持つ、スペイン剣術に由来するエスパダ・イ・ダガと呼ばれるスタイルが広く練習されていました。(ビサヤ語で『刀』はピヌティ(pinuti)、『白』はプティ(puti)であり、日本でも抜き身の刀を白刃と呼ぶことから、白は国を超えて刀を意味するようです。)

しかし19世紀後半になると、モロの海賊と戦う機会が減少したため、このエスパダ・イ・ダガは、右手に持つ武器が刀からスティックに変わっていきました。エスパダ・イ・ダガは「剣とナイフ」を意味するため、この時点でこの技法はエスパダ・イ・ダガではなくなったのですが、アーニスの世界ではその後も、スペイン時代の名残から、右手にスティック、左手にナイフを持つ技法をエスパダ・イ・ダガと呼んでいます。

そのためこの記事では、右手に刀を持つエスパダ・イ・ダガを「古典的エスパダ・イ・ダガ」、右手にスティックを持つエスパダ・イ・ダガを「現代的エスパダ・イ・ダガ」と呼ぶことにして話を進めていきます。

古典的アーニス/エスクリマの特徴

古典的エスパダ・イ・ダガの特徴は、お互いの武器が刃物であるため、相手の刀が自分の体に触れないように遠い間合い(ラルゴ)を取り、複雑なフットワークを使って、相手の攻撃の外に自分の体を移動させることにあります。また、刀と刀、力と力がぶつかり合うようなブロックは、刀が壊れるためできるだけ避け、自分の刀の側面を巧みに使って、相手の刀の勢いを流したり、そらしたりする、複雑な手技を使うのも特徴です。

現代のアーニスは、20世紀に生まれた接近戦の技術、「コルト」の影響を受けてスティック・ファイティングとなってしまったため、刀を使った技術を継承している流派は、きわめて希になっています。そのため、ネットやDVDなどで、刀を使ったアーニスの演武を見ると、自分の練習しているアーニスがスティック・ファイティングであることを知らずに、誤った間合いの取り方や刀の使い方をしている例が多く見られます。

前回の記事で解説したBBCのドキュメンタリーでも、ドセ・パレスの生徒たちが刀を使った演武で、接近した間合いを取り、刀と刀をぶつけ合っている場面が見られましたが、これも刀の使い方を誤った一例といえます。

現在、スペイン統治時代の古典的なブレードの技術を伝えているのは、アントニオ・イラストリシモが伝えたイラストリシモ・エスクリマぐらいかと思われます。

(動画)イラストリシモ・エスクリマとベルダデラ・デストレザ(スペイン剣術)の比較

上の動画は、イラストリシモ・エスクリマとスペインの古流剣術、ヴェルダデラ・デストラザの技を比較したものです。フロレテ、プルマ、メジャ・フライル、ドゥブレ・カレラなど、今でもイラストリシモ・エスクリマで当たり前に練習されている技が、スペインの古流剣術の技と非常に似ていることがわかります。

ドキュメンタリーのドセ・パレスの演武にあったような、刀と刀、力と力がぶつかり合うようなブロックは一切見られないことや、それを可能にするために複雑な手技とフットワークが使われていることがよくわかります。

(動画)イラストリシモ・エスクリマの指導の様子

上の動画は、2013年、私がイラストリシモ・エスクリマのグランドマスター、トニー・ディエゴからプエスパダ・イ・ダガ(プンタ・イ・ダガ)の指導を受けている様子です。間合いの取り方や、フットワーク、武器の操作法などが、現代よく見られるアーニスと違うことがわかります。

フットワークやポジショニング(体を置く位置)について細かく指導されている様子が見られますが、このような指導は、私が現代アーニスの代表であるドセ・パレス・エスクリマ(コルト・クルバダ・エスクリマ)を学んだときにはまったくありませんでした。

コルト・オリヒナルの普及

19世紀後半になると、スペインが蒸気船を導入したことで海賊の襲撃は激減し、アーニスは、海賊と戦う手段から、余暇や護身術へと変化していきました。それにより、エスパダ・イ・ダガのときに右手に持つ武器が刀から、木製の刀、そしてスティックへと変化していき、アーニスの技術もスティックに最適な形に変化していきました。

刀で戦う場合は、相手の武器が体に触れただけでもダメージを負うため、相手と離れた間合い(ラルゴ)を取っていましたが、武器がスティックになると、武器が体に触れたぐらいではダメージを追うことがないため、相手に近づいた間合い(コルト)を取るようになりました。

また刀で戦う場合は、刀が壊れるのを防ぐため、力と力、武器と武器がぶつかり合うようなブロックは使わず、複雑な手技で相手の攻撃を受け流しましたが、武器がスティックになると、武器が壊れる心配がなくなったため、力と力、武器と武器がぶつかり合うようなシンプルな動作のブロックが可能となりました。

右手にスティック、左手にナイフを持ち、相手の攻撃をしっかり受け手められるよう、歩幅を広く取り重心を落とし、相手が攻撃してきたら、間合いを詰めて、相手の攻撃をしっかり受け止めるこのスタイルは、コルトの最も初期のスタイルのため「コルト・オリヒナル」と呼ばれ、20世紀に入って広まりました。

このコルト・オリヒナルは、ドセ・パレスの創始者、ロレンソ・サアベドラが指導したスタイルとして有名ですが、ドセ・パレスの名声とともにフィリピン全土に広まり、しだいにこのコルトの技術がアーニスの基本となっていきました。

ドセ・パレスの創設メンバーのひとりであるカコイ・カニエテによると、戦前のドセ・パレスでは、この現代的エスパダ・イ・ダガの練習が中心であり、現代のアーニスの主流であるシングル・スティックの技法が広まったのは戦後のことだそうです。

2013年に私がカコイ・カニエテにインタビューしたときに、「刀は練習しなかったのが?」と質問すると、「刀はディスアームの練習をしただけた。」との答えが返ってきたため、1930年代のドセ・パレスでは、はもはや古典的なエスパダ・イ・ダガの技術が失伝していたようです。

エスパダ・イ・ダガの進化

20世紀のエスパダ・イ・ダガを語るうえで欠かせないのが「コンバット・ジュードー」の存在です。コンバット・ジュードーは、明治時代にアメリカに渡った日本の柔道家や柔術家が、アメリカ人に伝えた護身術のことです。

渡米した柔道家たちはアメリカ人に乱取りの技術を教えましたが、その当時のアメリカではまだ柔道はまだスポーツ競技として普及しておらず、生徒たちからもっと日常の役に立つ技を教えてほしいと頼まれたため、護身術を教えたのでした。この護身術はのちに、警察や軍隊などで取り入れられ、コンバット・ジュードーと呼ばれるようになりましたが、フィリピンには駐留したアメリカの軍人によって伝えられました。

ドセ・パレスのイェスス・クイは、このコンバット・ジュードーの達人で、コンバット・ジュードーにある、相手の手首やヒジなどを固めて、ナイフやスティックなどを取り上げる技術をアーニスに取り入れることで、打つ、突くがほとんどでであったアーニスの技術を飛躍的に発展させました。

コルト・オリヒナルでは、左手に持ったナイフで、スティックを持つ相手の右手をコントロールする、タピタピと呼ばれる技術を重視しますが、クイはこのタピタピの技術とコンバット・ジュードーの技術を合わせて、相手に接近した状態から、相手の武器を奪い取ったり、相手を固めて投げたりする技術を次々と開発していきました。

ドセ・パレスで開発されたこの最新のエスパダ・イ・ダガの技術は、すぐに他のアーニス・グループでも練習されるようになり、それによりコルトの技術がアーニスの標準となっていきました。

この現代的エスパダ・イ・ダガで最も有名な流派は、モモイ・カニエテが創始した、サンミゲル・エスクリマでしょう。モモイは、サアベドラとクイの忠実な弟子であったため、サンミゲル・エスクリマのエスパダ・イ・ダガは、もっともオリジナルな(ドセ・パレスで開発された当時の)エスパダ・イ・ダガの技術を残しています。

(動画)モモイ・カニエテによる演武

上の動画は、サンミゲル・エスクリマの創始者、モモイ・カニエテのエスパダ・イ・ダガの演武です。イラストリシモ・エスクリマのエスパダ・イ・ダガと違い、相手に接近しながら、力と力がぶつかり合うようなブロックを使っていることがわかります。

また、コンバット・ジュードー由来の固め技や投げ技が見られると同時に、その技の過程で相手の武器を左手で握ったり、左腕で抱えたりと、刀では危険なためできない動きをしているのもわかります。

(動画)サンミゲル・エスクリマの指導の様子

上の動画は、2013年、私がモモイ・カニエテの高弟のひとり、フェデリコ・メンドーサ・ジュニアからエスパダ・イ・ダガの指導を受けている様子です。同じエスパダ・イ・ダガでも、トニー・ディエゴの指導を受けているの動画とは違い、フットワークによるポジショニングはなく、近い間合いで、相手の攻撃をしっかり受け止めており、左手のナイフがなければ現代のシングル・スティックのアーニスと同じことがわかります。

イラストリシモ・エスクリマのエスパダ・イ・ダガがスペイン時代の技術だとすれば、サンミゲル・エスクリマのエスパダ・イ・ダガは、右手に刀、左手にナイフを持って戦ったスペイン時代の技術と、右手にスティック1本だけ持って戦う現代アーニスをつなぐ過渡期の技術だといえます。

また、上の2つの動画では、使われているスティックが通常のアーニスのスティックより長いこともわかります。これはモモイが、ブレード・ファイティングの名残を留め、ラルゴを重視して長いスティックを使う「リテラダ」スタイルのアーニスを兄のヨーリンから学んでいたためです。

このように20世紀前半は、アーニスの技術が古い形を残しながらも、現代につながる新しい技術が次々と開発された橋渡しの時期でした。サンミゲル・エスクリマは、アーニスがスティック・ファイティングに変わったばかりの時期のドセ・パレスの技術を残すことから、別名「ドセ・パレス・オリヒナル」とも呼ばれていますが、このオリジナルの技術はこの後もドセ・パレスでさらに進化していくのでした。

参考資料

  1. 大嶋良介「セブ島のアーニス:第1回 スペイン剣術とアーニスの成立」『月刊秘伝 2020 APR. 4』2020年3月14日, BABジャパン。
  2. 大嶋良介「セブ島のアーニス:第4回 サンミゲル・エスクリマ」『月刊秘伝 2020 OCT. 10』2020年9月14日, BABジャパン。
  3. 大嶋良介(2013)「公開!フィリピン武術の全貌」東邦出版。
  4. 山田 実(1997)「yawara―知られざる日本柔術の世界」BABジャパン。

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