今回は、ロレンソ・サアベドラの弟子であり、ドセ・パレスのチーフ・インストラクターを務めた、モモイ・カニエテについて書いてみます。
モモイの活躍した時代は、アーニスの技術がブレードを使った古典的なエスパダ・イ・ダガから、最新のスティック技法であるコルト・クルバダまで変化した時期であるため、モモイを通してアーニスの技術の変遷を見ることもできます。
モモイ・カニエテ
モモイ・カニエテは1904年にセブのサン・フェルナンドで生まれました。カニエテ家は18世紀初頭に活躍したモモイの高祖父、サンティアゴ・カニエテまでさかのぼることができるアーニスの名門一族であり、モモイも7歳のころから兄のヨーリンとともに父のグレゴリオからアーニスを学びました。
その当時のサン・フェルナンドには、有名なエスクリマドールが多くおり、モモイは父の他にも、地元で最も恐れられていたピアノ・アラナスや、ピヌティ(短刀)とスティックの達人、フアンソ・テクヤ、母方のいとこのセサリオ・アリソンなどからもアーニスを学びました。
革新主義者である兄のヨーリンは、その当時のアーニスを「直線的でつまらないスタイル」であったと語っていることから、モモイが学んだアーニスは、スペイン剣術の名残を残す古典的なアーニスであったと思われます。
1917年、カニエテ家はセブ市に移住すると、有名なエスクリマドール、ロレンソ・サアベドラと面識を得るようになり、ロレンソが1920年にラバンゴン・フェンシング・クラブを設立すると、モモイとヨーリンは創設メンバーとしてクラブに加わりました。
クラブではモモイは、ロレンソから当時のアーニスの最先端の技術であったエスパダ・イ・ダガとコルト(ショートレンジ)を学ぶと同時に、ナイフの名手といわれたイエスス・クイからコンバット・ジュードーとエスパダ・イ・ダガを学びました。また、クイからはラルゴ(ロングレンジ)の重要さも教えられたといわれており、ラパンゴン・フェンシング・クラブの指導内容が多岐に渡っていたことがわかります。
1930年にラバンゴン・フェンシング・クラブが内紛により解散し、1932年にサアベドラ家とカニエテ家が中心となってドセ・パレスが結成されると、モモイは役員に選出され、新たなクラブのチーフ・インストラクターになりました。
そして、この時期のドセ・パレスでは、ストライクを12種類に分け、それぞれに対応するブロックとカウンター・ストライクを組み合わて教えるなどのシステム化された指導法や、相手に接近して戦う「コルト」、コルトとコンバット・ジュードーを合わせたディスアームの技術など、最新の指導法や技術が次々と開発されていきました。
当時のドセ・パレスは、フィリピンのアーニスの最先端であったため、多くのクラブがドセ・パレスの指導法や技術をまねしたり取り入れたりして、ドセ・パレスのスタイルがフィリピン各地に広まっていきました。
また、セブ以外の地では、スティック・ファイティングを「ドセ・パレス」と呼ぶなど、ドセ・パレスがアーニスの代名詞となったり、ドセ・パレスの名前を無断で名乗るクラブも現れるほどでした。
そして、このアーニスの技術や指導法の歴史的転換期に、その中心人物であるサアベドラからアーニスを学んだ経験は、モモイのアーニスを形作る上で重要な基礎となりました。
アーニス/エスクリマの技術の変革
モモイが、ラバンゴン・フェンシング・クラブやドセ・パレスでアーニスを練習した時期は、アーニスの技術の変革期でした。
19世紀初頭までのアーニスは、モロの海賊と戦うために、右手に刀(エスパダ)、左手にナイフ(ダガ)を持つ、スペイン剣術に由来する、エスパダ・イ・ダガと呼ばれるスタイルが中心でした。
このエスパダ・イ・ダガでは、相手の刀が自分に触れないように遠い間合い(ラルゴ)を取り、複雑なフットワークを使って相手の攻撃を巧みにかわしました。また、刀と刀がぶつかり合うようなブロックは、刀が壊れるためできるだけ避け、自分の刀やナイフの側面を使って、相手の刀の勢いを流したり、そらしたりする、複雑な手技が特徴でした。
しかし、19世紀後半にスペイン軍が蒸気船を導入したことで海賊の襲撃が激減し、アーニスが海賊と戦う技術から余暇や護身術となると、エスパダ・イ・ダガのときに右手に持っていた刀はスティックに変わり、技術もスティックに適したものに変わっていきました。
ロレンソ・サアベドラが、ラパンゴン・フェンシング・クラブやドセ・パレスで指導したエスパダ・イ・ダガは、この新しいタイプのエスパダ・イ・ダガで「コルト・オリヒナル」と呼ばれるものでした。
コルト・オリヒナルでは、右手の武器がスティックになったことで、武器が体に触れても危険ではなくなったため、相手に接近した間合い(コルト)を取りるようになりました。また、武器が刀でなくなったことで、相手の攻撃を武器をぶつけ合うようにして受けられるようになり、攻撃を受け止めるために、重心を落として歩幅を広くしたスタンスを取るようになりました。
また、モモイのもう一人の師であるイェスス・クイは、コンバット・ジュードーの使い手として有名でした。相手の手首やヒジを固めて、素手で相手のナイフを取り上げる、ナイフ・ディスアームを得意としており、それをアーニスに応用し、現代のアーニスで一般にみられる、相手のスティックを取り上げる、スティック・ディスアームを開発しました。
ドセ・パレスではこの時期に、ロレンソのコルト・オリヒナルと、クイのコンバット・ジュードーの逆技を組み合わせにより、相手に接近して、相手のスティックの攻撃をしっかり受け止めたあと、相手の手首やヒジ、肩などを固め、相手を投げたり、極めたりする技術を次々と開発していきました。
さまざまなスタイルのマスターたちが集まるドセ・パレスで生まれた、この20世紀のエスパダ・イ・ダガの技術は、フィリピン全土に広まり、古いスタイルのエスパダ・イ・ダガを駆逐していきました。そして、モモイはこの新しいスタイルのエスパダ・イ・ダガの技を好んで練習し、のちに誰もが認めるエスパダ・イ・ダガの名手となりました。
モモイは伝統主義者なのか?
太平洋戦争中にロレンソ・サアベドラとドーリン・サアベドラが亡くなると、戦後のドセ・パレスではカニエテ家とアンション・バコンがクラブの運営を巡って対立し、最終的にはバコンがドセ・パレスを脱退しました。
バコンがカニエテ家と対立した理由は、カニエテ家がサアベドラのアーニスを変えたことや、フィリピンの伝統を軽視して外国の武術の技術や制度をアーニスに取り入れたことにあります。
実際、モモイの弟のカコイは、サアベドラが指導したコルト・リニアルに満足できず、コルト・リニアルをより実戦的に改良したコルト・クルバダを創始したり、柔道や柔術、レスリングの技術をアーニスに取り入れました。
また、戦後のドセ・パレスでは、日本の武道の段位制を取り入れたり、日本の道着をきて演武したりなど、外国の制度を取り入れることにもまったく躊躇がありませんでした。
1980年代にラメコ・エスクリマの創始者、エドガー・スリティがヨーリン・カニエテに行ったインビューで、ヨーリンは、「父親から学んだシステムはもう練習したいない。」「単調でつまらないシステムだった。」「我々は70年間システムを改良し続けている。」などと伝統を変え続けていることを誇らしく語っています。
サアベドラのアーニス、フィリピンの伝統に誇りを持つバコンやイシン・アティリョなどがドセ・パレスを脱退したのも当然といえるでしょう。
ただし、モモイはヨーリンやカコイと違い伝統主義者でした。弟のカコイが、バハドに勝つことだけを考え、役に立たなければ伝統的なアーニスの技術でもためらいなく捨て、役に立つのなら外国の武術の技術でもどんどん取り入れていく態度を嫌っていました。
そのため、モモイは、ドセ・パレスに古くから伝わる技術を守るために、サンミゲル・エスクリマを立ち上げたといわれています。「サンミゲル」は、モモイの生まれ故郷のサン・イシドロの守護神である「聖ミカエル」から取ったといわれており、古いドセ・パレスの技術を残していることから一部では「ドセ・パレス・オリヒナル」とも呼ばれています。
だだし、モモイは、排外主義者ではありませんでした。イェスス・クイから、日本由来の武術であるコンバット・ジュードーを熱心に学んでおり、その技術はサンミゲル・エスクリマの重要な核となっていますし、モモイが柔道着を着てアーニスを演武したり、弟子たちとコンバット・ジュードーの演武をしている映像なども残っています。
また、モモイは新しい技術も否定しませんでした。自らも槍(バンカウ)の研究に熱意を注ぎ、エスパダ・イ・ダガの用法を応用した独自の槍の技術を開発したり、ロング・スティック(アナナンキル)ムチ(ラティゴ)やチェーン(カデナ)、スローイング・ナイフなどの技術も研究して自らのアーニスに取り入れています。これらの技法は古くからフィリピンに伝わるものではなく、モモイが新たに創始したものです。
そう考えるとサンミゲル・エスクリマは、伝統主義者であるモモイが、古いドセ・パレスの技術を残すために創始したスタイルでないことがわかります。
実際、2011年に著者がモモイの高弟のフェデリコ・メンドーサJr.にインタビューしたときに「サンミゲル・エスクリマは古いドセ・パレスのなの技法か?」と聞くとメンドーサは、「これはモモイが、自分のアーニスを表現したものだ。」と答えました。
カコイが、数々のバハドで無敗を誇り、ドセ・パレスの名を高めると、ドセ・パレスのアーニスは、カコイのコルト・クルバダを中心にした技術に変わっていきました。そのようななかで、カコイとは違ったアーニス観を持つモモイが、自分のアーニスを表現するために創始したのが、サンミゲル・エスクリマだったのでしょう。
サンミゲル・エスクリマ
サンミゲル・エスクリマは、シングル・スティック、ダブル・スティック、エスパダ・イ・ダガ、コンバット・ジュードー(ナイフ・ディスアーム)、ロング・スティック(アナナンキル)、槍(バンカウ)、ムチ(ラティゴ)、チェーン(カデナ)、スーローイング・ナイフなどの多彩な武器を練習することで有名です。
ただし、シングル・スティックやエスパダ・イ・ダガ、ナイフ以外の武器は補助的に練習するものであり、攻防の技術を身につけることよりも、基礎力を高めることが目的だといわれています。
例えば、ダブル・スティックでは流動的で切れ目のない動きを学び、槍では両手でひとつの武器使うことで体の動きと力の統合法を学び、ムチではストライクのタイミングと全身を使った動きを学といった具合です。
モモイは基本をとても重視したそうで、2019年に私がモモイの孫のパント・カニエテにインタビューした際に、パントは「祖父は基本にとても厳しく、特にベーシック・ストライクは徹底的にやらされた。」と語っていました。「基本をしっかり理解しなければ、応用はできない。」「基本を身につけずに応用技をかけても、効果がまったく違うのですぐにわかる。」と基本の重要性を強調していました。
実際、パントの指導法を見てみると、スタンス、姿勢、フットワーク、ストライク、ブロック、チェックハンドなどの指導が徹底されており、地元の生徒たちはそれらを使った単純なドリルを1時間以上もひたすら練習させられていました。
また、著者は2011年にモモイの高弟のフェデリコ・メンドーサJr.からサンミゲル・エスクリマの核といわれるフォーム(形)を学ぶ機会を得ましたが、これも単純なストライクを前後、左右、回り込みとフットワークを変えながらひたすら繰り返す、演じるのに5分以上もかかる長い形でした。
また、その際にロング・スティックも教わりましたが、これも相手がこう来たらこう返すといったテクニックではなく、フットワークを使いながら単純なストライクとブロックをひたすら繰り返すという、基礎力を養い基本の動きを身につけるためのものでした。
モモイの古い弟子は、モモイは個々のテクニックよりもそれらの根底にある原理を理解させることを重視しており、それはいったん原理を理解すればどのような攻撃にも、どのような武器にも応用が利くようになるからだったと語っています。
実際にパントの演武を見てみると、コンバットジュードーはシングル・スティックと原理や体の使い方がまったく同じであり、またシングル・スティックは、徒手と原理や体の使い方がまったく同じであり、いったん原理を理解すればどのような武器にも応用が利くということがよくわかりました。パントによればこれは武器がダブル・スティックであろうエスパダ・イ・ダガであろうが同じだそうです。
インタビューの際にパントに外国の武術を学んだ経験を尋ねると「エスクリマができれば他はなにも必要ない。」との答えが返ってきました。基本をを繰り返し、原理を理解すれば、外国の武術など借りなくてもあらゆる状況に対応できる。これこそが伝統主義者のモモイが理想としたアーニスだったのかもしれません。
フィルカン サンミゲル・エスクリマ
モモイ・カニエテの孫、パント・カニエテが主催するフィルモカンの練習風景です。
参考資料
- 大嶋良介「セブ島のアーニス:第4回 サンミゲル・エスクリマ」『月刊秘伝 2020 OCT. 10』2020年9月14日, BABジャパン。
- 大嶋良介(2013)「公開!フィリピン武術の全貌」東邦出版。
- Galang, R. S. (2005) Warrior Arts of the Philippines. NJ. Arjee Enterprises.
- Sulite, E. G. (1993) Masters of Arnis Kali and Eskrima. Manila. Bakbakan International.
- Wiley M. V. (2001). Filipino Fighting Arts: Theory and Practice. CA. Unique Publication.
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