解説:The Way of Warrior – Eskrima

黒帯授与式の写真 作品解説
2013年10月、カコイ・カニエテ(左から4番目)から黒帯を授与される著者(左から3番目)。

今回は1983年6月にBBCで放送されたドキュメンタリー、”The Way of Warrior” の第5話、”Eskrima” について解説します。

このドキュメンタリーは、1980年代初頭のドセ・パレスを特集したものであり、ドセ・パレスのトップ・ファイターであるカコイ・カニエテを中心に話が展開されていますが、ヨーリン・カニエテやモモイ・カニエテ、インティン・カリン、ディオニシオ・カニエテなど、このブログで紹介したさまざまなマスターたちも出演しています。

40年以上前の貴重な記録映像を、今までに記事で紹介した知識を再確認しながら解説してみたいと思います。

映像について

(動画)The Way of Warrior. Episode 5 Eskrima: The Filipino Way.

このドキュメンタリーが撮影されたのは、ドセ・パレスが創設50周年を迎えた1982年です。

それまではゴロツキのケンカ術だったアーニスがスポーツとなり、初めてトーナメントが開催されたのが1979年であり、このドキュメンタリーが放映された3か月後の1983年9月にイシン・アティリョとカコイ・カニエテの最後のバハドが行われています。

アーニスがケンカ術からスポーツに変化する転換期に撮影された作品であるため、出演しているマスターたちは死線を生き抜いたエスクリマドールでありながら、生徒たちはスポーツとしてアーニスを学びに来ている普通の若者という、40年前のアーニス界の混沌とした様子を観ることができます。

練習に使う防具も手作りであり、アーニスがスポーツ化したばかりで試行錯誤の最中であることががよくわかります。

今までの記事で紹介した知識を駆使して観ると、より深く、面白く観ることができますので、忘れてしまった方は、もう一度「アーニスの歴史」のタグの付いた記事を読み返してみることをおすすめします。

ドセ・パレスの練習風景

0:28あたりでエスクリマを「フィリピンで初めてナショナル・スポーツとなった武術」と紹介し、カコイのことを「認定されたチャンピオン」と紹介しています。

カコイは、1979年3月24日に開催された第1回アーニス・オープン・トーナメントと、同年8月19日に開催された第1回インビテーショナル・アーニス・トーナメントで優勝していることから、そのように紹介されたのでしょう。

このドキュメンタリーが放映された2か月後に行われたイシン・アティリョとのバハドのときも、新聞や雑誌はカコイを「ナショナル・チャンピオン」と紹介していることから、この当時、カコイは世間からアーニスのチャンピオンと認識されていたことがわかります。

1:06あたりに映っているのが、当時ドセ・パレスの本部があったC.パディリャ・ストリートです。このC.パディリャには、魚市場があり、流れ者が多く集まる、パシル、サン・ニコラスという治安の良くない地区があります。アーニスはこのような場所で生まれ、このような人たちに好んで学ばれました。

ドセ・パレスは1989年、カコイの兄で総裁のヨーリンカニエテが亡くなると、ドセ・パレス・インターナショナル(DPI)とカコイ・ドセ・パレス(現カコイ・カニエテ・ドセ・パレス:CCDP)に分裂しますが、CCDPの本部は現在でもこのC.パディリャのサン・ニコラス地区にあります。

1:11あたりで「街の中心部の外れにある小さなクラブの本部が、エスクリマの基準をを打ち立て国中に広めた。」といっています。1930年代にこのドセ・パレスで開発された最新の技術や練習法がフィリピン全土に広まり、各地で古典的なアーニスを駆逐して、現在のアーニスの標準となりました。

1:21あたりで「クラブの名前はドセ・パレスであり、12のペアを意味し、シャルルマーニュ王のボディーガードから取ったものだ。」といっています。

クラブの名前は、ドセ・パレスの創始者で現代アーニスの父、ロレンソ・サアベドラが、刑務所でフェンシングを教えてくれたフランス人の神父に敬意を表して付けたものです。

1:30あたりでサヤウ(形)の演武をしているのがドセ・パレス総裁、ヨーリン・カニエテの息子で、ドセ・パレス・インターナショナル(DPI)の創始者、ディオニシオ・カニエテです。1975年に対立グループを説得して、共同してセブ・エスクリマ協会(SEA)を設立し、アーニスをスポーツ化した功労者です。

弁護士であり、会社をいくつも経営する有能なビジネスマンもあります。当時はマニラでトヨタ自動車の代理店を経営しており、マニラではアントニオ・イラストリシモやトニー・ディエゴなどとも交流がありました。

1987年にディオニシオが世界エスクリマ・カリ・アーニス連盟(WEKAF)をロサンゼルスで創設したことで、アーニスがスポーツとして世界に普及しました。

1:33あたりでドセ・パレスを「カニエテ家によって始められた、友人たちと練習するためのクラブであり、今も家族によって運営されている」といっていますが、これはBBCの間違いです。ドセ・パレスは、サアベドラ家とカニエテ家によって始められたクラブであり、カニエテ家のクラブになったのは戦後のことです。

2019年、インティン・カリンの息子、アルフレッド・カリンよりリテラダの指導を受ける著者。

1:59あたりで「いま見ているのはフォームまたは『形』の練習で、長く込み入った単独でおこなう演武です。」といっています。この形練習はフィリピン古来のものではなく、カニエテ家が日本の空手から取り入れたものです。

アンション・バコンがドセ・パレスを脱退したのは、サアベドラが伝えたアーニスを、カニエテ家が外国の武術を取り入れて変えていくのに耐えられなかったからですが、そのことははこの形練習を見てももわかります。

3:10あたりで行われている練習がラルゴ(ロング・レンジ)の技術、リテラダです。後退しながら相手のスティックを叩き落として、相手の手にカウンターを打ち込みます。戦前、セブ最強といわれたエスクリマドール、イスラオ・ロモが得意としたスタイルで、ドセ・パレスにはロモの弟子のヨーリン・カニエテによって伝えられました。

ロモ以前のラルゴの技は、武器が刀だったため、複雑なフットワークと手技を必要としましたが、ロモの時代には、武器がスティックになったため、シンプルなフットワークを使って、相手の武器を力で叩き落とすことが可能となりました。

コルト・クルバダとコンバット・ジュードー

3:35あたりでカコイがコルト・クルバダ特有のスティックの操作法、スティックをどのように回転させるかを解説しています。

現代のアーニスは、使う武器がもはやブレードではないため、刃筋を意識した直線的なストライクを出す必要がありません。スティックはどんな角度から、どの部分が当たっても相手にダメージをあたえることができるので、コルト・クルバダでは、手首を回転させ、曲線的なストライクを繰り出します。

4:52あたりでカコイは「最も効果的なストライクは、曲線的なストライクだ。」、「リニアル(直線的な)・ストライクは簡単にブロックされる。」、「ストライクが曲線的ならば、相手がどう防ごうと、スティックの先端はターゲットに当たる。」といっています。これこそがクルバダ・ストライクの優位性なのですが、多くのエスクリマドールはこのことを理解していないようです。しかし、このことはドセ・パレスにとってはメリットでもありました。

5:55あたりでカコイが「自分のスタイルが最強であることを証明する唯一の方法は、どのような挑戦でも受けることだ。」と語っています。この撮影の1年後にカコイはバリンタワクのイシン・アティリョから挑戦を受け、1983年9月17日に記録に残る最後のバハド(チャレンジ・マッチ)を行っています。

6:16あたありで「我々が使うテクニックは、実戦で他のだれも使わないものだ。」とカコイが語っているように、コルト・クルバダは当時、ドセ・パレス以外は誰も使わないものでした。クルバダ・ストライクの防御法は他の誰も知らなかったため、イシン・アティリョとのバハドでも、リコス(ループ・ストライク)からアバニコのコンビネーションが、容易にアティリョの頭に当たり、それが勝敗の決め手となりました。

父の命を救ったコンバット・ジュードーの技術を指導する、ビンセンテ・カリン・ジュニア。

6:50あたりでディオニシオからナイフ・ディフェンス(コンバット・ジュードー)の指導を受けるのが、カコイの息子エドガー・カニエテです。カコイの後継者として育てられましたが、2001年に他界しました。その息子が現CCDPのグランドマスター、チャック・カニエテです。

7:17あたりでダブル・スティックを振っているのが、1932年の創設以来、55年間ドセ・パレスの総裁を務めたヨーリン・カニエテです。ディオニシオ・カニエテの父でラルゴ・マノの使い手です。1988年にヨーリンが死去すると、その翌年にドセ・パレスは、息子のディオニシオが率いるドセ・パレス・インターナショナル(DPI)と、弟のカコイが率いるカコイ・ドセ・パレス(CDP:現CCDP)に分裂しました。

8:00あたりにでてくるのが「不死身のエスクリマドール」、インティン・カリンです。フィエスタのときにナイフを持った7人の暴漢に襲われ、後ろから椅子で殴られ、倒れたところをナイフで刺されましたが、ナイフを奪い取って相手を刺し殺し一命をとりとめました。70年代までの間、セブのエスクリマドールたちはこのような実戦を数多くこなし、そのなかでアーニスの技術を高めていきました。

9:22からカコイが、コルト・クルバダの特徴であるマルティプル・ストライク(連打)の説明をしています。ストライクを休まず打ち続けることで、相手を防戦一方にし、反撃の機会を与えないようにします。これが、単発のストライクの攻防を基本とする、コルト・リニアル(バリンタワク・エスクリマ)とコルト・クルバダの違いです。

10:20あたりで「カコイの左手は右手と独立して動いている。」といっています。コルト・クルバダでは、左手で相手のスティックを持つ手をコントロールしながら、同時に右手で相手にストライクを打ち込みます。他のスタイルのように相手の攻撃をスティックでブロックしてから、ストライクを打ち返すのではなく、防御と攻撃が同時に、休むことなく連続して行われるのが特徴です。

シヌログのパレード

12:00あたりからがシヌログのパレードの様子です。シヌログは、1521年にマゼランがセブの首長に贈ったサント・ニーニョ(キリストの子ども時代の人形)を称える、フィリピン最大のお祭りです。

12:51あたりで「スペイン人はフィリピンの人びとや習慣に爪痕を残した。」、「エスクリマも例外ではなかった。」、「ヨーロッパの剣術の技が、スペイン人到来時にあった武術に加わっていったのは明らかだ。」、「スペイン人到来以前の武術は中国やインドの影響を受けたものだったかもしれない。」といっています。

アーニスがスペインの剣術の影響を受けて成立したことは確かですが、スペイン人到来時には、形式の整った武術などと呼べるものは存在しませんでした。戦場で使われていたのは、個人が自分で身につけた技にすぎないことは、フィリピン大学の人類学の教授でエスクリマドールのクリス・ホカノが “The Bladed Hand” のなかで指摘しています。

13:02あたりで「現代のエスクリマは、これらが混ざって発展したものである。」、「これと同じシステムは、フィリピンの別の地域では『アーニス』と呼ばれている。」といっていますが、これも間違いで、「アーニス」という言葉はセブでも使われています。実際に、11:40に出てきた横断幕にも「アーニス」の文字が書かれています。

14:27あたりで「スペインの話では、ラプラプと彼の部下は木製のスティックで戦った。」、「これはエスクリマについて書かれた最初の文書である。」とありますが、マゼランの航海に同行したアントニオ・ピガフェッタの記録では、ラプラプの部下はカンピラン(太刀)を使って戦っています。

また、ラプラプはマゼランと直接戦ってはいません。そしてもちろん、ラプラプの使った技はエスクリマではありませんので、ピガフェッタの記録は、エスクリマについて書かれた最初の文書ではありません。

14:46あたりでブレードを使った演武を行っていますが、ブレードの使い方が間違っています。ブレード・ファイティングでは、自分の武器が壊れないよう、複雑なフットワークと手技を使って、武器と武器をぶつけ合うことを避けます。武器をぶつけ合ってブロックするのはコルト(棒術)の技術です。

私が2013年にカコイ・カニエテにインタビューしたときに、カコイに「戦前のドセ・パレスでは、ブレードの練習はしたのか?」と聞くと、カコイは「ブレードの練習は、素手でディスアームをする練習をしただけだ。」と語っていました。ドセ・パレスでは、最新の技術を生み出した反面、古典的なブレードの技術は失伝しまったのでした。

イベントに向けての練習

17:49あたりでエスパダ・イ・ダガ(オリシ・バラウ)を演武しているのがカコイの兄でサンミゲル・エスクリマの創始者、モモイ・カニエテです。ドセ・パレスの創設メンバーであり、1995年に亡くなるまで、ドセ・パレスのインストラクターを務めました。

エスパダ・イ・ダガの名手であり、伝統主義者だといわれており、古いドセ・パレスの技術を残すため、サンミゲル・エスクリマを創設しました。モモイのエスパダ・イ・ダガは、剣術の名残を残した、ロングレンジ用の長いスティックを使っていますが、技法的には、複雑なフットワークを使わず、相手の攻撃をしっかりと受け止めるコルト(棒術)のものです。

コルトの技術にコンバット・ジュードー由来の逆技や投げ技を加えたエスパダ・イ・ダガは、1930年代にドセ・パレスで開発され、全国、そして全世界に広まりました。

フィリピノ・カリ & チャイニーズ・ボクシング・アカデミー

19:07で「カニエテ家はアメリカに何度も渡り、彼らの技を披露している。」といっています。

1970年代に入るとドセ・パレスはアメリカの武術団体に招かれて各地で演武を行うようになりますが、アメリカでのアーニスの興隆を目にしたディオニシオが、トラブルばかり起こしているセブのアーニス界の現状に危機感を感じ、それがアーニスのスポーツ化へとつながりました。

19:10あたりでカコイの娘、キャシーのエスパダ・イ・ダガの相手をしているのが、全米、そして世界にフィリピン武術の存在を知らしめたダン・イノサントです。このドキュメンタリーが撮影された当時はロサンゼルスでフィリピノ・カリ&チャイニーズ・ボクシング・アカデミーを開いていました。

イノサントが1980年に “The Filipino Martial Arts” を出版したことで、それまでアメリカではフィリピン人コミュニティーのなかだけで練習されていたフィリピン武術が一般に知られるようになり、世界に普及するきっかけとなりました。

ただし、イノサントの著書により、フィリピン武術に対する誤った情報が世界中に広まってしまったことも見逃せません。

19:44あたりでイノサントが、キャシーが披露したエスパダ・イ・ダガについて「これは古典的な形なのか。」と問うと、キャシーは「これは古典的な形で、叔父のモモイが教えてくれたものだ。」と答えています。さらにイノサントが「この技術はいつごろ形成されて発展していったのか?1930年代ではないか?」とキャシーに問うと、キャシーは「1930年代よりもさらに前だ」と答えています。

これについてはイノサントの認識の方が正しいです。スティックを使うエスパダ・イ・ダガの技は、アーニスが剣術から棒術に変わる20世紀初頭に生まれた技術であり、キャシーが披露しているエスパダ・イ・ダガは、その技術にコンバット・ジュードーの逆技や投げ技が加わって1930年代にドセ・パレスでで開発されたものです。

再びドセ・パレスでの練習

26:19あたりで受へ身の練習をしています。CCDPでは今でも練習は受身のから始まり、昇段級審査でも受け身は必須項目です。柔道や柔術の技術を取り入れたたCCDPスタイルのエスクリマでは受身は必須の技術だからです。

26:49あたりで飛び込みながらの受け身と、立っている相手に走り寄って投げる練習が見られます。柔道経験者には馴染のある練習だと思います。私もCCDOでこの練習をしたときには、柔道の練習をしているのか、アーニスの練習をしているのかわからなくなりました。

(動画)CCDPのスパーリングの様子

柔道や柔術の技術や練習法が当たり前に組み込まれているアーニスというのは画期的なのですが、フィリピンの伝統を重視する伝統主義者には耐えがたいものなのでしょう。アンション・バコンやモモイ・カニエテが、ドセ・パレスから独立し、自分の流派を立ち上げたり、インティン・カリンが2人の息子をドセ・パレスには通わせず、自宅でアーニスを教えたのもわかる気がしました。

29:16あたりで防具をつけています。この撮影の3年前の1979年に第1回目のアーニス・オープン・トーナメントが開かれたばかりで、この当時はまだ防具は改良中でした。

29:16あたりで「スポーツ競技会を開催するために防具を開発した。」、「防具を着用することで1976年に国内大会の開催が可能になったが、これは最初の大会であった。」といっていますが、これはBBCの間違いで、最初の国内大会の開催は1979年です。ディオニシオ・カニエテが最初に防具を開発したのが1976年のことなので、それと間違えたのかもしれません。

29:29では腕や手に防具を着けていないのがわかります。ラルゴ(遠い間合い)で戦うのではなく、コルト(近い間合い)で戦うため、手を打たれることがないので必要ないのでしょう。

第1回のアーニス・トーナメントでも、競技者がグローブをつけ忘れて戦うミスがあったことを、ディオニシオが ”Escrimadors” のなかで語っています。これを見ると、アーニスの競技化とは、コルト・クルバダを競技化したものだということがよくわかります。

50周年記念行事

31:50あたりに出てくるのがフィリピン国家アーニス協会(NARPHIL)の副総裁で、ファビアン・ベル将軍の部下、ウィルフレド・エストラダ将軍です。NARAPHILはアーニスの復興と普及を目的に、1975年に創設された非営利組織で、マルコス大統領の右腕のベル将軍が初代総裁を務めました。エストラダ将軍は、NARAPHILの議長を務める、ベルに次ぐ実力者です。

33:27あたりでカニエテ家の兄弟がでてきます。1982年当時にはまだ6兄弟のうち、5名が健在でした。左からカコイ、ヨーリン、モモイ、エソ、ピニン。カニエテ家は、18世紀初頭のサンティアゴ・カニエテまでさかのぼることができるアーニスの名門一族であり、カコイの祖父のレオンシオはスペインからの独立戦争を戦いました。

34:25あたりでエストラダが「ラプラプは、アーニスに秀でていた。」といっています。フィリピンでは国威発揚のためなのか、正確な知識がないためなのか、このような説が広まっています。

また、武術家のなかにも、自分の武術に箔をつけるためなのか、このようなことをいう者がいます。実際には、アーニスは、スペイン人から教わった「アルマス」が発展してできたものです。

34:49あたりでもブレードの演武が見られますが、これもブレードの使い方が間違っており、スティックの使い方になっています。

ブレード・ファイティングでは遠い間合いを取り、武器と武器をぶつけ合うことをできるだけ避けるのが基本です。このような間違いは、ブレードの使い方が失伝してしまった現代のアーニスにおいて、演武などのときによく見られる光景です。

参考資料

  1. The Way of the Warrior: Eskrima, the Filipino Way (Entire Video). URL: https://www.youtube.com/watch?v=-GzVpSypCFY. (February. 28. 2024).
  2. FMA TALK LIVE “SGM Diony Canete of Doce Pares Multistyle – arnis eskrima kali escrima“. URL: http://www.fmatalklive.com/2014/01/sgm-diony-canete-of-doce-pares.html. (January 12, 2014).
  3. Ignacio, Jay. (2012). The Bladed Hand, The documentary on the Global Impact of the Filipino Martial Arts. Olisi Films.
  4. Co, G. (2009). Eskrimadors: A Filipino Martial Arts Documentary. Point Source Filims.

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