デルフィン・ロペスとアンション・バコン

クエンコ家の写真 マスター
ロペスが仕えた、マリアーノ・クエンコ(左)とその息子のマニュエル・クエンコ(右)。

前回のブログでは、暴力のなかで生きたエスクリマドールの代表として、ドセ・パレスのインティン・カリンを取り上げました。

今回はバリンタワク・グループでバコンに次ぐ実力者といわれたデルフィン・ロペスと、グランドマスターであるアンション・バコンを通して、スポーツ化する以前のエスクリマドールの実態を見てみます。

デルフィン・ロペス

前回のブログでは、70年代以前のアーニスはゴロツキのケンカ術であり、当時のエスクリマドールは常に暴力の中で生きていたとを書きましたが、そのなかでもデルフィン・ロペスは別格といえます。

ロペスは、身長180センチ、体重80キロの巨漢で、バリンタワクでは、アンション・バコンに次ぐ実力者でしたが、性格が粗暴で暴力的であったため、みんなから恐れられ嫌われており、彼を悪くいう者は今でも数えきれません。

2019年に私が、グルーピング・システムを開発したティオフィロ・ベレスの息子、モニ・ベレスにインタビューしたとき、モニは「ロペスはならず者で、そのロペスにアーニスを教えるカニエテを、バコンは嫌っていた。」と語っていました。

ティオフィロとともにグルーピング・システムを開発したホセ・ビリャシンは、仕事上でロペスと対立関係にあったため、ティオフィロがロペスをならず者と呼ぶのはわかりますが、バコンもロペスを相当嫌っていたようです。(ただし、ロペスにアーニスを教えたのはカニエテではなく、ドーリン・サアベドラです。)

また、ティオフィロの弟子のサム・ブオトの著書、 “Balintawak Eskrima” には、ロペスが練習でバコンの弟子をいたぶるため、バコンがロペスを厳しく注意する場面が描かれています。

ブオトはロペスについさらに、「10代のころに初めて彼と会ったが、怖くて目を合わせららなかった。」、「彼は自分が好む人たちには優しいが、自分が嫌う人たちには苦痛をあたえる人物だった。」と書いており、ロペスがバリンタワクの主流派メンバーから恐れら、嫌われていたことがよくわかります。

そのため、ロペスについて書かれた資料は最近までほとんどありませんでしたが、2020年に、カコイ・カニエテと最後のバハドを戦った、イシン・アティリョが ”Atillyo Balintawak Eskrima” を出版したことで、初めてロペスに関する詳しい情報がわかるようになりました。

イシンの父、ビンセンテ・アティリョはロペスの親友であり、ロペスはイシンの洗礼親にもなっています。イシンは子供のころから父とロペスにアーニスを学んでおり、アティリョ親子は、バリンタワクの嫌われ者だったロペスの、数少ない味方でした。

ロペスとバコンの関係

イシンによれば、バリンタワク・セルフ・ディフェンス・クラブが1952年に設立されたときには、すでにバリンタワクには2つの派閥があったそうです。

バコンは、セブのアーニスの父といわれるロレンソ・サアベドラの下で、ロレンソの甥のドーリン・サアベドラとともにコルト・リニアルを学び、戦後カニエテ家がドセ・パレスを支配するようになるとドセ・パレスを脱退しました。

このときドセ・パレスでバコンからアーニスを教わった者たちはバコンの後を追ってバリンタワク・グループに加わりましたが、新たなグループに加わったのはバコンの弟子たちだけでなく、ドーリンの弟子たちも含まれていました。それがイシンの父のビンセンテ・アティリヨとデルフィン・ロペスでした。

このことからアティリヨ親子はロペスと親密な関係にあり、彼らは居住地のマンバリンで練習していたことから、ドーリンの系統のバリンタワクはマンバリン・スタイルと呼ばれ、グループの主流をなすバコンの弟子たちとは一線を画していました。

アンション・バコン(右)とデルフィン・ロペス(左)。バリンタワク・グループ結成時の写真。

ロペスはバコンの弟子ではなかったため、バコンに対してはバコンの弟子たちが持つような絶対的な敬意やあこがれを持っておらず、バコンとの仲はそれほど良くなかったようです。

例えば、バコンがドセ・パレスを脱退して新しいグループを作るときに、そのグループに新しく名前をつけようとしましたが、ロペスとビンセンテはサアベドラがつけたドセ・パレスの名を守り、サアベドラ・ドセ・パレスやドセ・パレス・オブ・サアベドラにすべきだと主張したため、バコンとロペスの間で激しい口論となりました。

口論は数週間経っても収まらず、結局2人はバハド(チャレンジ・マッチ)で決着をつけることとなり、バコンが勝った結果、ドセ・パレスの名前は捨てることとなりました。しかし、その後も2人の仲が良くはなることはなく、そのことがロペスの死にまで影響しました。

セブの政治とロペス

セブの政治とビジネスは長い間、オスメニャ家とクエンコ家に支配されていました。1946年、セブ出身のフィリピン第4代大統領でナショナリスタ党の創設者のひとり、セルヒオ・オスメニャ・シニアが自由党の創設者、マニュエル・ロハスに大統領選で敗れると、セブの支配権はオスメニャ家から、自由党員でロハスを支持するクエンコ家の手に移りました。

反オスメニャの急先鋒であるマリアーノ・クエンコは1946年に上院議員に再選し、1949年から51年まで上院議長を務め、息子のマニュエル・クエンコは1946年から51年までセブ州の知事を務めました。

この間にクエンコ家は、ロハス大統領との絆を強め地方政府への支配を強化しましたが、1951年の知事選で前大統領の息子、セルヒオ・オスメニャ・ジュニアがマニュエル・クエンコを破ると、セルヒオはクエンコ派のセブ州内の市長を次々と汚職の罪で追放し、オスメニャ家とクエンコ家の対立は一気に高まりました。

1951年の総選挙でマリアーノ・クエンコが上院議員の座を失うと自由党のキリノ大統領との絆が失われ、そのキリノが1953年にセブ市長をホセ・ロドリゲスからビンセンテ・デル・ロサリオに変えると、新市長のロサリオは同年に行われる大統領選に向けて、キリノの応援活動を始めました。

キリノに裏切られたクエンコ家は自由党からナショナリスタ党に支持を変え、53年の大統領選では、キリノの対立候補で元国防長官のラモン・マグサイサイを応援するようになりました。

1953年、市長に就任したロサリオは、市政府における自分の支配を確立するため、43名の警察官を解雇しましたがデルフィン・ロペスもそのうちの1人でした。

1990年代に国家警察が設立され、警察官が国家公務員となる前のセブでは、警察はセブ市政府によって運営され、市長は自分の手足となって働く警察官を側近として採用していました。警察と同じ権力を持つが、警察から独立し、私服を着て、市長個人のためだけに働く彼らは「セクレタ」と呼ばれていましたが、ロペスは前市長、ロドリゲスのセクレタのひとりでした。

トム・メドウスの著書 “The Challenge Fights of Grandmaster Ciriaco “Cacoy” Canete” には、ロペスが警察官時代に12人の地下組織の人間を殺して「殺し屋」と呼ばれていたことが書かれています。前市長のために様々な活動をしていたロペスは、新市長のロサリオや、ロサリオが行うキリノ大統領の再選運動には邪魔な存在だったのでしょう。

解雇された警察官たちはセブ市に対し訴訟を起こしましたが、反ロサリオであり、キリノ大統領の再選を阻止したいクエンコ家がこの訴訟を支援したことで、ロペスはクエンコ家と親密な関係になっていきました。

ロサリオ市長の護衛を務めた不死身のエスクリマドール、インティン・カリン。

クエンコ家の支援を受けたロペスは、ロサリオが行う大統領選の応援活動をあちこちで妨害し、市長のボディガードを何人も侮辱し力で制圧したため、ついにロサリオは自分に忠実な警察官で「不死身のエスクリマドール」、インティン・カリンをボディーガードとして側に置くようになりました。

ある日、ロサリオが、ティサでキリノ大統領の応援活動をしていると、ロペスとその仲間(ロサリオに解雇された警察官)が市長やボディガードを侮辱し始め、それを止めに入ったカリンがいきなり銃を抜いてロペスを撃ったのは前回書いたとおりです。

この事件は、ドセ・パレスとバリンタワクの対立などではなく、ロサリオとクエンコ家の政治的な争いが裏にあり、おそらくカリンはロサリオやキリノ陣営からロペスを殺すよう指示されていたのだと思われます。橋から転げ落ちたロペスにカリンが発泡し続けたと目撃者が語っていることから、市長の護衛が目的ではなく、初めからロペスを殺すことが目的だったのでしょう。そう考えると、カリンもロサリオのセクレタだったのかもしれません。

労働組合連合との対決

警察を解雇された後、ロペスはデルフィン・ロペス・セキュリティ・エージェンシーという警備会社を設立しました。バリンタワク関連の書籍にはロペスを労働運動のリーダーと紹介しているものもありますが、実際には、労働組合活動を妨害したり、会社のためにストライキを無効化する社員(ストライク・ブレイカーズ)を護衛したりするなど、労働争議を力でつぶすことを仕事としており、親密な関係にあるクエンコ家の政治活動やビジネスを合法、非合法に支援していました。

1956年5月、クエンコ家の経営するビサヤン・セブ・ターミナル・カンパニー(VCTC)が、マニラの政治家のコネを利用し、セブ港の貨物事業を独占するようになると、51年の知事選でにマニュエル・クエンコを破り知事となったセルヒオ・オスメニャ・ジュニアは、会社に不満を持つ港湾労働者を集め、1954年に設立された労働組合同盟(ALU)を支援し、1956年10月にVCTCに対するストライキを起こさせ、セブ港の物流を麻痺させました。

ホセ・ビリャシン。グルーピング・システムの開発者であり、ALUの顧問弁護士も務めたエスクリマドール。

クエンコ家はすぐさまロペスを雇い、ストライク・ブレイカーズを護衛したため、ALUのストライキ中もセブ港の物流が止まることはありませんでした。

しかし、ALUの設立者のひとり、デモクリト・メンドーサはバコンの友人でありバリンタワクのエスクリマドールでした。またバリンタワクの画期的な練習法、グルーピングを開発したホセ・ビリャシンはALUの顧問弁護士であり、バコンも定期的にALUのイベントやストライキの警備を担当していたことから、バコンや他のバリンタワクのメンバーとロペスの距離はますます開くこととなりました。

数日後、セルヒオは警察を動かして9年前の殺人の容疑でロペスを逮捕してセブ港の貨物事業の支配を一時的に取り戻すと、メンドーサとALUに港湾労働者と交渉する独占権をあたえて、セブ港からクエンコ家の勢力を一掃しました。

ALUによるセブ港の支配が確立するとロペスは釈放されましたが、このことはロペスがいかにオスメニャ家やALUから恐れられていたかの証明でもありました。

ロペスの死

前回のブログでは、ロペスの死について、穀物倉庫で起こった労働争議をつぶしに行ったときに、積み上げた米袋の上に身を隠した男に後ろから飛びかかられ、ナイフで鎖骨から心臓を刺されて死んだと書きました。

この労働争議は、1964年9月24日に、ウイ・マティアオ&カンパニーが運営する穀物倉庫で起きたもので、実はALUの支援で行われたものでした。ロペスを刺したエミリアノ・ベラニアもALUが雇った殺し屋だったといわれています。

上から鎖骨の部分をナイフで刺したのも偶然ではなく、ロペスはカリンに銃で撃たれてからは常に防弾ベストを着用していたため、ベストのすき間を狙ってのことでした。

ロペスが防弾ベストを着用していることは周りのごく一部の者しか知らず、その一人がバコンであったことから、ロペスが死ぬとALUの創始者のひとりであるメンドーサと親密な関係にあり、ALUのストライキの警護を担当しているバコンが、ロペスを排除したいALUに情報を提供したのではないかとの噂が流れました。

裁判も極めて政治的なもので、ベラニアがロペスを刺すのを目撃した者が数多くいるにも関わらず、ベラニアは無罪となり釈放されました。証人の多くがALUの会員であったり、そうでない者もALUを恐れて何も証言しなかったからです。そのベラニアも裁判後しばらくしてミンダナオ島で謎の死をとげています。

前述のサム・ブオトの著書には、ブオトがレストランで会ったときのロペスについて、「彼はエイの尾から作った、しなるストラップのついたバストン(スティック)を持っており、部屋の隅の席に座り、不審と警戒の目で部屋の人たちを見ていた。」と書いており、トム・メドウスの著書には、ロペスが「車のトランクに常に銃火器を積んでいた。」ことが書いてあります。

暴力のなかで生き、身を守るために細心の注意を払っていたロペスでしたが、最終的には暴力のなかで命を終えたのでした。

アンション・バコンの伝説

ロペスをALUに売ったと噂されたバコンのその後はどうなったでしょうか。

「1960年代、アンション・バコンは帰宅中にナイフを持った暴漢に襲われたが、ナイフを奪い取り相手を刺し殺した。しかしアンションが高名な武術家だったため正当防衛が認められず有罪となった。」

アーニスの世界では良く知られている伝説です。

私がこの話について、2019年、バコンの高弟のジョー・ゴの弟子、ベンソン・ビリャマラと話したとき、ビリャマラは私に「ご近所ドラブルだ。」といいました。そのときは家の近所で襲われたという意味なのかと深く考えませんでしたが、後にイシンの著書を読んで、これが本当にご近所トラブルだったことがわかりました。

バコンの息子、レオニーは近所でも有名な泥棒で、人のものを盗んでは金に換えていました。バコンの隣人のピオ・デイパリネは、巨漢のボクサーでドセ・パレス時代からのバコンの弟子でもありましたが、レオニーの盗み癖には辟易していました。

ロペスの死から間もないある日、レオニーがココナツを盗んだことで、ディバリネがバコンの家に苦情を言いに行くと、台所にいたバコンはウエストバンドに包丁を隠して外に出ました。

このときレオニーは、数日前に起きた身に覚えのない強盗事件の容疑で警察に逮捕、拘留されており、そのことで機嫌の悪かったバコンは、ディパリネがレオニーの盗み癖を非難すると、激しい口論となりました。

怒ったバコンがウエストバンドに隠し持った包丁を取り出し、ディパリネの腹をを刺すと、ディパリネは地面に倒れ、そのまま出血死しました。

警察が駆けつけるとバコンは「帰宅中にディパリネがナイフで襲ってきたので反撃して殺した。正当防衛だ。」と主張しましたが、近所の複数人が事件を目撃しており、結局バコンは殺人罪で起訴され有罪となりました。

アンション・バコン(右)。晩年は、弟子たちが誰もいうことを聞なかったため、常にイライラしていた。

バコンの返り討ちの話は、「カリはミンダナオのモロの武術だ。」とか「バハドは死者が出る壮絶な戦いだった。」という、アーニスの世界によくある、自流派や自分に箔を付けるための伝説と同じものでしょう。

ティオフィロ・ベレス息子、モニ・ベレスも、2019年に私が取材した時に「ナイフで襲われたアンションは、相手のナイフを奪い取り、刺し返して、川に落として殺してしまった。」とバリンタワクに箔をつけるための「返り討ち伝説」を語ってくれました。

実際には、バコンが一方的にディパリネを刺し、倒れたディパリネを何度も蹴っていたことが、裁判時の証人の証言で明らかになっています。

弟子を殺したことで信頼を失ったのでしょうか。バコンの服役中にバリンタワクはいくつものグループに分裂し、バコンの出所後は、誰もバコンのいうことを聞かなくなっていました。そして、数年後、バコンは失意のうちにその生涯を終えました。

そのことを考えると、バコンも暴力によってエスクリマドールとしての生命を絶たれたといえるでしょう。

参考資料

  1. 大嶋良介「セブ島のアーニス:番外編 デルフィン・ロペスの死の真相」『月刊秘伝 2022 NOV. 1』2022年10月14日, BABジャパン。
  2. Atillo, C. I. (2020). Atillo Balintawak Eskrima. Crispulo Atillyo & Glen Boodry.
  3. Buot, S. (2016). Balintawak Eskrima. PA. Tambuli Media.
  4. Oaminal, C. P. Mayor Jose V. Rodriguez and the dismissed city detective.The Freeman. July. 11. 2014. URL: https://www.philstar.com/the-freeman/opinion/2014/07/11/1344972/mayor-jose-v-rodriguez-and-dismissed-city-detective.
  5. Meadows, T. (2014). The Challenge Fights of Grandmaster Ciriaco “Cacoy” Canete. CA. Freehand Publishing.

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