エスクリマ・カリン

エスクリマ・カリンの写真 アーニスのスタイル
インティン・カリンの身を守ったナイフ・ディデンスを指導する、息子のアルフレッド・カリン(中)とビンセンテ・カリン(右)。

セブ・エスクリマ協会(SEC)の尽力によりアーニスは1970年代にスポーツになりました。しかし、それ以前のアーニスは、世間ではゴロツキのケンカ術とみなされており、実際にエスクリマドールは常に暴力のなかで生きていました。

今回は、1950年~70年にかけてのアーニスの黄金期に活躍した、ドセ・パレスのトップ・ファイターのひとり、インティン・カリンを通して、アーニスがスポーツ化する以前のエスクリマドールの実態を見てみます。

インティン・カリン

インティン・カリンは1921年にセブのダラゲテで生まれました。カリンの幼いころ、父のゴリオが職を求めてセブ市内に移住するというのを、母のマルタが反対したため、怒ったゴリオが家に火をつけ、幼いカリンを連れてダラゲテがら逃げる事件を起こしました。

結局、ゴリオは、手製の銃や吹矢を持った母の兄弟に追われて捕まり、放火と誘拐の罪で服役したことで、皮肉なことに、家族は職を得やすいセブ市内に移住する結果となりました。

また、カリンは10代の初期に、兄のシプリアーノが警察官に撃たれて殺され、遺体を泥のなかに投げ捨てられるのを目撃しています。暴力のなかで生きるカリンは、子供ながらも兄の復習を誓い、その警察官をいずれ殺すことを決意しています。

そして16才になると、地元で有名なエスクリマドールであった叔父のポンシン・イバネスについてアーニスを学ぶようになりました。ポンシンはさまざまなスタイルを学んだエスクリマドールでしたが、インティンの息子のアルフレッドによれば、そのスタイルはスティックだけでなくブレードも使う古典的なアーニスであったそうです。

太平洋戦争が始まると、他のエスクリマドールと同様に抗日ゲリラ部隊に身を投じ、セブの山岳地帯で日本軍と数々の戦闘を重ねますが、任務中に行方不明と死亡を3度宣告されるほどの激しい戦闘を通して得た度胸と判断力、戦闘のなかで磨かれたアーニスの技術は、カリンが後に経験する数々の戦いにおいて大きな助けとなりました。

ダラゲテに残るバンタヤン・サ・ハリ(監視塔)の遺跡。ダラゲテでは昔からアーニスが生存術として学ばれている。

終戦後、ダラゲテに戻ると、親類はみなアーニスの練習をしており、対立関係にあった遠い親戚と投石や刃物で戦う殺し合いを繰り広げていました。そのなかには、カリンのアーニスの師である、叔父のポンシン・イバネスもいました。

カリンは、卒業試験として叔父のポンシンとバハドを戦い、激闘の末に勝利すると、その後、地元で数々のバハドを勝ち抜きエスクリマドールとしての名声を高めていきました。

バハドを勝ち抜くなかで、兄を殺した警察官を探しますが、警察官はカリンが自分を探しているのを知ると、家族を連れてミンダナオ島に逃げてしまいました。カリンのエスクリマドールとしての名声は地元では知らないものはいなかったようです。

地元ではもはや学ぶことがなくなったカリンはセブに戻ると、当時最高峰のアーニスの団体であるドセ・パレスに加わり、モモイ・カニエテの下で最先端のアーニスを学びました。特にエスパダ・イ・ダガとナイフ、コンバット・ジュードーの技術を熱心に研究しましたが、これが後に自身の命を救うことになります。

カリンの才能と努力はすぐにカニエテ家に認められるようになり、1950年以降のドセ・パレスとバリンタワク・グループの戦いでは、ドセ・パレスを代表するファイターとして30戦以上のバハドを戦い、得意のラルゴの技術を駆使して無敗を誇りました。

そして後にその経験をもとに、モモイから教わったアーニスに独自の工夫を加えたダラゲテンホン・スタイルと呼ばれる実戦重視のアーニスを創始しました。

不死身のエスクリマドール

アーニスは今でこそフィリピンの国技として学校の体育にも取りれられているが、70年代以前はゴロツキのケンカ術であり、それを練習する人間も常に暴力のなか、または暴力と隣り合わせの生活をしていました。

例えば、バリンタワクのデルフィン・ロペスは、秘密警察出身で、セブの政治一族、クエンコ家の非合法活動を担当する人物であり、カコイ・カニエテによれば、警察官時代には裏社会の人間を12人殺しており、車のトランクには常に銃器を積んでいたそうです。残忍な男で道場では常に練習相手をいたぶっていたため、ドセ・パレスからだけでなくバリンタワクの仲間からも嫌われ、恐れられていました。

そういうカコイもペプシコーラのセキュリティー担当の社員であり、バリンタワクのリーダーのアンション・バコンもALU(労働組合同盟)の幹部の警護を務めており、最終的には隣人を包丁で刺し殺し刑務所に服役しています。

70年代以前には、襲撃する側、襲撃される側、襲撃される人を守る側のどこにもエスクリマードールが当たり前にいましたが、インティン・カリンもそのうちのひとりした。

エスクリマドールとしてのカリンの名前を世間に知らしめたのは、フィエスタの襲撃事件です。1950年のマボロで行われたフィエスタのときにカリンは友人が4人の男に襲われているのを目撃しました。そのうちの1人はナイフを抜いて友人を刺そうとしていたため、カリンはそのナイフを払って助けに入りました。

助けられた友人はその場から逃げてしまったため、攻撃の矛先はカリンに向かい、襲撃者側にはさらに仲間が3人加わったため、カリンはナイフを持った7人を相手に素手で戦うこととなりました。

しばらくの間はコンバット・ジュードーの技術で相手と渡り合っていましたが、カリンの鉄壁のディフェンスに業を煮やした1人が後ろから椅子でカリンの頭を殴り、倒れたカリンの腹を2度深く刺しました。意識が朦朧となりながらも、カリンは相手のナイフをディスアームし、相手の脇の下を刺して絶命させると、襲撃者はみな逃げ出しました。

駆けつけた警察官にナイフを渡すとカリンは意識を失いましたが、そこには絶命した者1名と重傷を負った者2名が横たわっていました。

カリンも死んだと思われ、遺体安置所に運ばれましたが、カリンが刺されて死んだというニュースを聞いて遺体安置所に駆け付けたヨーリン・カニエテがカリンにまだ息があることを確認したため、すぐに病院に運ばれ一命をとりとめました。

この事件によりカリンの名前は「不死身のエスクリマドール」としてアーニスの世界だけでなく、セブの一般の人々、そして政治の世界にも知られるようになりました。

デルフィン・ロペス狙撃事件

1953年4月にセブの市長に就任したビンセンテ・デル・ロサリオは、対立するクエンコ家の非合法活動員であった、バリンタワクのデルフィン・ロペスからたびたび脅迫やいやがらせを受けていました。

1953年は大統領選挙の年でしたが、ロサリオは、自分の市長選挙を支援してくれたキリノ大統領の再選のため、セブの各地で応援活動をしていました。それに対し、ロペスが仕えるクエンコ家は、その年の大統領選では対立候補である元国防長官のマグサイサイを支援していたため、ロペスは、クエンコ家の指示の下、ロサリオの選挙応援活動をあちこちで妨害していたのでした。

また、ロペスは、クエンコ家の息のかかった前市長に秘密警察官として仕えていたため、ロサリオが市長に就任すると解雇されており、ロサリオに対し個人的な恨みもありました。

ロサリオは常にボディガードをつけていたものの、だれもロペスには歯が立たず、毎回力でねじ伏せられていたため、有名なエスクリマドールであり当時警察官であったカリンをボディーガードとして側に置くようになりました。

あるときロサリオが、ティサでキリノ大統領の応援活動をしていると、ロペスとその仲間(ロサリオに解雇された警察官)がいつものように市長やボディガードを侮辱し始めました。

ボディガードがひるむなか、ロペスをよく知るカリンがロペスと対峙し、激しい口論となると、カリンはいきなり銃を抜いてロペスを撃ちました。撃たれたロペスは橋から転げ落ちましたが、途中で木に引っ掛ってから川に落ちたため、奇跡的に一命をとりとめました。

カリンがなぜロペスを撃ったかについて、2019年7月に私が、インティン・カリンの息子、アルフレッド・カリンにインタビューしたところ、「フィエスタのときの傷がまだ癒えていなかったからだ。」との答えが返ってきました。

しかし、フィエスタからは3年が経過しており、その間にバハドを戦っていることを考えると、おそらく、カリンは、ロペスを殺すようロサリオから命令を受けていたのだと思われます。

しかし、モモイの弟子のカリンがロペスを殺そうとしたことでバコンが激怒し、ドセ・パレスとバリンタワクの対立はいっそう激化したそうです。

2019年8月に私が、バコンの高弟のティオフィロ・ベレスの息子、モニ・ベレスにインタビューしたところ、「ヨーリンとモモイはならず者のロペスを嫌っており、バコンがロペスにアーニスを教えていることに腹を立てていた。」と語りました。カリンが迷わずロペスを撃った背景には、カリンが師のモモイ同様にロペスを嫌っていたこともあったでしょう。

ロペスはその後、穀物倉庫で起こった労働争議の妨害に行ったときに、積み上げた米袋の上に身を隠したに男に後ろから飛びかかられ、ナイフで刺されて死んでいます。鎖骨から入ったナイフは心臓まで達し、ロペスは口から血を吐いて即死しました。

またロペスを撃ったカリンもこの事件が原因で、マニラのモンテンルパ刑務所に服役していますが、そこでも暴力の渦から逃れられませんでした。

あるときカリンがバスケットボールをしていると、肋骨に痛みを感じました。振り返ると警察官時代に捕まえたペデリコ・パルマという悪党が角材で2撃目を打とうとしていました。それを外受けして相手をネックロックすると、彼の仲間たちがカリンを襲おうとしました。カリンがパルマを盾にすると、刑務官が駆けつけました。また、アーニスを学んでいる刑務官から挑戦されたこともありました。

エスクリマドールは常に暴力事件を引き起こすし、暴力の世界に生きる者も好んでアーニスを学びに来る。ヨーリンの息子のディオニシオがアーニスのスポーツ化を推進したのはそういう暴力の世界と縁を切りたかったからです。

カリンのアーニス観

1956年、地元のエスクリマドール、ロロ・ララワンのタリサイの自宅で、エスクリマドール同士の懇親会が開かれました。そこには、当時激しい対立関係にあったドセ・パレスとバリンタワクのエスクリマドールも招かれており、ドセ・パレスからはヨーリン・カニエテ、モモイ・カニエテ、カコイ・カニエテ、インティン・カリンなどが、バリンタワクからはアンション・バコン、ティモール・マランンガ、デルフィン・ロペスなどが参加していました。

懇親会ではありましたが、激しく対立するグループ同士なので、雰囲気はしだいに険悪になり、特に、カリンとカリンに殺されかけたロペスは一触即発の状態になりました。結局、ヨーリンとバコンが、カリンとロペスをなだめたことで2人のバハドは回避され、ロペスはフロレンシオ・ラソラとカリンもあるエスクリマドール(名前は不明)とバハドを戦うこととなりました。

ロペスの試合は、試合が始まるとロペスが前進し、ラソラの頭に3打ストライクを入れ、ラソラがよろめきながら後退して地面に倒れると、ロペスがどどめのストライクを打とうとしましたが、その瞬間、バコンが両者の間に割って入り試合は終わりました。

カリンの試合は、相手が頭を打ってきたのを、カリンが後退しながら相手の頭にカウンターを打ち、とどめのストライクを打とうとすると、モモイが間に割って入り試合は終わりました。

ロペスの戦い方は、、試合が始まると間合いを詰めるためにすぐに前進する、コルトを専門とするバリンタワク・エスクリマの戦い方であり、カリンの戦い方は、相手の攻撃に対し、後退して距離を取りながらカウンター・ストライクを打つ、ラルゴの戦い方です。

このカリンの戦い方は「リテラダ」と呼ばれ、20世紀初頭、セブ最強といわれたエスクリマドール、イスラオ・ロモが得意としたスタイルです。相手の攻撃に対し、後退(リテラダ)しながら、遠い間合い(ラルゴ)を維持し、頭や腕にカウンターを打ち込むこのスタイルを、カリンはヨーリン経由でモモイから学んでいます。

モモイの兄のヨーリンは、メジャ・ラルゴの使い手であり、ロモの弟子でした。ロモが主宰したクラブ、PSNP(国家防衛協会)では、ラルゴの戦いに有利なように、通常のアーニスよりも長いスティックを使用していましたが、ナイフの使い手であるイエスス・クイからラルゴの重要性を教えられたモモイも、この長いスティックを生涯使用しました。それは、バハドのためにコルト・クルバダだけを練習するカコイに対し、ラルゴやエスパダ・イ・ダガも重視するモモイのアーニス観の表れでした。

カリンも、1950年代から70年代にかけてのアーニスの黄金期に、カコイと並びドセ・パレスを代表して数々のバハドを戦ったエスクリマドールでしたが、アーニスのスタイルはカコイとは正反対でした。カコイがコルト・クルバダに特化して練習したのに対し、カリンははコルト・クルバダは一切練習せず、バハドでは常にラルゴで戦いました。

(動画)アルフレッドとビンセンテJr.から、ラルゴを学ぶ著者

これについて、カリンの息子のアルフレッドは「父はカコイのスタイルを嫌っていた。」、「コルト・クルバダは柔道や空手ができる人や、体の大きい人に有利で、フィリピン人には不向きだからだ。」と語りました。カリンは外国の武術を嫌っていたため、柔道も空手もできなかったことから、コルトの戦いは得意ではなかったのでしょう。

そのため、カリンの自宅はドセ・パレスから歩いて5分の場所にあるにもかかわらず、2人の息子はドセ・パレスに通わせず、自分でアーニスを教えました。アルフレッドも「ドセ・パレスには柔道を習いに通ったが、アーニスは学んでいない。」と語っています。

カリンもモモイと同じく、カコイが中心となり、コルト・クルバダしか練習しないドセ・パレスに不満を持っていたことがわかります。

エスクリマ・カリン

カリンのシステムは、モモイの技をじっくり観察することで、技術を体系化し、動きを単純化したものだそうですが、カコイのスタイルを嫌い、外国の武術を嫌ったという点では、モモイの影響が強く残っているようです。(モモイは外国の武術自体を嫌ってはいませんでしたが)

2004年、カリンが亡くなると、カリンのアーニスは、息子のアルフレッドとビンセンテJr.に受け継がれ、しばらくはドセ・パレス・インターナショナル(DPI)の傘下で指導されていましたが、2010年に兄弟はDPIから独立し、エスクリマ・カリン・インターナショナルを設立しました。

エスクリマ・カリンの特徴は、モモイの創始したサンミゲル・エスクリマ同様に、さまざまなスタイルのアーニスを学ぶことにありますが、それだけでなく、それらの技術を段階的に習得するための細かいプログラムが組まれていることにもあります。

レベル1ではシングル・スティックのラルゴ・マノを、レベル2ではシングル・スティックのメジャ・ラルゴを、レベル3ではシングル・スティックのコルトを、レベル4ではダブル・スティックを、レベル5ではエスパダ・イ・ダガを、レベル6ではコンバット・ジュードーを学ぶようになっており、レベル1は50時間、それ以外のレベルは25時間で技術が習得できるように細かくカリキュラムが決められています。

私は2019年8月にレベル1の教習を見学しましたが、ステップ、ブロック、コンビネーションストライク、ディスアームを数種類学ぶと、それらの組み合わせを変えながらブロック&カウンターをひたすら繰り返して技を定着させていました。

また私自身もカリンが得意としていたラルゴの教習を体験してみましたが、これもステップとカウンター・ストライクを数種類学んだ後、それらの組み合わせを変えながらブロック&カウンターをひたすら繰り返すものでした。

技の原理を頭で理解した後は、反復練習をひたすら行うことで、体に原理を定着させる指導法は、師のモモイが創始したサンミゲル・エスクリマの指導法と同じでした。

モモイのアーニスに、自身の数々の実戦経験を活かして磨かれたカリンのアーニスは、現在、2人の息子によってさらに改良を加えられ、カリンの自宅のあったサン・ニコラスで指導されています。

写真集 エスクリマ・カリン・インターナショナル

インティン・カリンの2人の息子、アルフレッドとビンセンテJr.によるエスクリマ・カリンの指導の様子です。

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参考資料

  1. 大嶋良介「セブ島のアーニス:第4回 サンミゲル・エスクリマ」『月刊秘伝 2020 OCT. 10』2020年9月14日, BABジャパン。
  2. Godhania, K. Geandmaster Vincente “Inting” Carin (1920-2003). FMA pulse. June. 22. 2013. URL: https://fmapulse.com/fma-legends/grandmaster-vicente-carin-1921-2003/.
  3. Palumbo, V. The Life Exploits of Vincente Carin. USAdojo.com. September 1, 2012. URL: https://www.usadojo.com/the-life-exploits-of-vincente-carin/.
  4. Atillo, C. I. (2020). Atillo Balintawak Eskrima. Crispulo Atillyo & Glen Boodry.

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