アティリョ・バリンタワク(1)

バリンタワク非主流派 アーニスのスタイル

現代アーニスの父、ロレンソ・サアベドラは、1920年代、甥のドーリン・サアベドラとアンション・バコンに、当時最新のア-ニスであるコルト・リニアルを伝えました。コルト・リニアルは1952年以降は、バコンによって伝えられ、バリンタワク・エスクリマと呼ばれるようになりましたが、ドーリンの系統のバリンタワクも存在します。

今回は、ドーリン系統のバリンタワク・エスクリマ、「オリジナル・サアベドラ・スタイル」の唯一の継承者である、イシン・アティリョとアンション・バコンの関係について書いてみます。

セブ・エスクリマ協会 vs. フィリピン・アーニス連合

以前の記事で紹介した、カコイ・カニエテ対イシン・アティリョのバハドは、一般にはドセ・パレス対バリンタワクの戦いだと思われています。しかし、この対戦を伝えたアトラス・ワールド・スポーツ・マガジン(AWSM)の記事では、カコイをナショナル・チャンピオン、イシンをフィリピン・アーニス連合(Philippine Arnis Federation)からの挑戦者と紹介しています。(正しくはConfedaratonで、記事のFedarationは誤り)

フィリピン・アーニス連合(PAC)は、1975年4月24日に、イシンがマニラでフィリピン国家アーニス協会(NARAPHIL)のエグゼクティブ・ディレクター、ロメオ・マスカルド将軍と面会し、加盟団体として認可をもらったアーニス振興団体です。(正確には加盟時の名称は、ビサヤ・ミンダナオ地域、新アーニス連合:NAC)

PACは、ドセ・パレスとバリンタワクの主流派であるビリャシン・ベレス派が協力して設立した、セブ・エスクリマ協会(SEA)よりも先にできた団体ではあったものの、実体はイシンの父のビンセンテ・アティリョやデルフィン・ロペスが練習しているだけの、バリンタワクのマンバリン派の道場であったため、アーニス振興のための活動などは行っていませんでした。

セブ・エスクリマ協会の役員。バリンタワクからはホセ・ビリャシン、ティオフィロ・ベレス、ジョニー・チューテンなどの主流派メンバーが選ばれている。

それに対しSEAは、セブのほとんどのアーニス団体を傘下に収め、ルールを制定し、防具を開発してアーニスをスポーツ化し、1979年3月にはNARAPHILと共同でアーニス・オープン・トーナメントを開催するまでになっています。

カコイはこのトーナメントと同年8月に開催されたナショナル・トーナメントで優勝したため、AWSMの記事ではカコイをナショナル・チャンピオンと紹介し、イシンをPACからの挑戦者と紹介しているのです。

つまり、このバハドは、バハドはドセ・パレス対バリンタワクの戦いというよりも、ドセ・パレスとバリンタワクの主流派が創設したSEAと、バリンタワクの非主流派であるマンバリン派の戦いであったといえるでしょう。ドセ・パレスに敗れたイシンに対して、バリンタワクから擁護の声がまったく聞こえなかったのもそういう理由からだと思われます。

孤立するマンバリン派

マンバリン派が孤立したのは、ビンセンテ・アティリョやデルフィン・ロペスがもともとバコンの弟子ではなく、バコンの兄弟子であるドーリン・サアベドラの弟子であったことにも理由があります。

自分たちのアーニスがバコン由来のものではなく、ドーリン由来のものであるため、バコンの弟子たちがバコンに対して持つような敬意が彼らにはなかったからです。

それどころか、イシンは、2021年に弟子のシェルビン・イルベイグが行ったインタビューにおいて、「バコンは地域の嫌われ者であり、彼の息子は質の悪い泥棒であったため、デルフィン・ロペスはバコンを殺したがっていた。」と語っており、これが事実なら、激しい憎悪すら持っていたことになります。

それはロペスの警察官時代の話だそうですが、ロペスとバコンと対立関係は、ロペスが警察を解雇された後も続きます。

バリンタワクの主流派は、1957年にホセ・ビリャシンとティオフィロ・ベレスが創設し、グルーピング・システムを開発した、バリンタワク・インターナショナル・セルフ・ディフェンス・クラブでした。ビリャシンがバリンタワクを代表してSEAの副総裁に就任したのもそのためです。

そして、ビリャシンは、仕事上では労働組合同盟(ALU)の顧問弁護士を務めており、そのALUの創設者のひとり、デモクリト・メンドーサはバコンの友人でした。そのため、バコンはALUのイベントの警備などを務めるなどALUの仕事を請け負っており、ビリャシンとは公私ともに強いつながりがありました。

それに対し、ロペスは「ストライク・ブレイカー」と呼ばれる、労働争議を妨害することを仕事としており、セブの政治一族、クエンコ家のためにさまざまな非合法活動を行っていました。

クエンコ家はALUと対立していたため、ロペスはALUが支援する労働争議を何度も妨害しており、ビリャシンやバコンとは仕事上で対立関係にありました。

1964年9月24日、ロペスは労働争議を妨害しに行った先で、労働者のひとりに刺されて死にますが、イシンはこの殺人にはALUとバコンが関わっていると信じており、父親同様のロペスを殺した(と信じる)バコンを恨んでいました。

ホセ・ビリャシンが副総裁を務めるSEAを、マンバリン派のイシン・アティリョが快く思っていなかったのは当然のことであり、それがイシンとカコイのバハドの背景にあったことは間違いはないでしょう。

イシンの反撃

(動画)イシン・アティリョへのインタビュー

カコイとのバハドに敗れて以後、長らく沈黙を守っていたイシンでしたが、2020年以降、著書やインタビューを通して、ドーリン系統のバリンタワクについて語り始め、バリンタワクの主流派を含むバコンの弟子たちのバリンタワクに対し、自分たちの正当性を主張し始めました。

それらの主張を、2021年6月17日にイシンの弟子のクラウディオ・マウレリが行ったインタビューを中心に、2020年にイシンが出版した ”Atillo Balintawak Eskrima” と、2021年に弟子のシェルビン・イルベイグが行ったインタビューでそれを補う形で見てみます。

インタビューではまずイシンは、ドーリン・サアベドラとアンション・バコンの関係について語り始めます。

「ドセ・パレスで、ドーリンはNo.1であり、バコンはそれに次ぐファイターだった。」、「1943年か44年、戦争の最中にタタイ・エンソン(ロレンソ・サアベドラ)はこういった。」、「ドーリン、アンション、我々は今ここにいる。戦ってみろ。もう今後会えるかわからない。戦後はみな死んでるかもしれないから。」、「バハドが始まるとバコンは逃げ出した。」と、ドーリンこそがドセ・パレスのトップファイターであり、ロレンソの後継者であったことを語っています。

さらにイシンは、「ロレンソ・サアベドラの動きはドーリンと同じで、自分と同じだ。」、「私のスタイルは『オリジナル』であり、他のバリンタワクとは違うスタイルだ。」、「バコンは馬鹿で、地域の嫌われ者で、息子はゴロツキで、(バコンは)刑務所に入れられた。」、「彼はグランドマスターでも何でもない。」、「ナイフで人を刺し殺した。」、「グランドマスターならスティックを使うべきだろう。」と、自分こそがロレンソとドーリンの技術の継承者であり、バコンはグランドマスターにふさわしくないと主張しています。

そして、イシンはバコンと戦ったバハドについて語ります。

「バコンは『誰がカコイ・カニエテと戦うのか?』と弟子たちに聞きいたので、私は『それはあなたでしょう。バリンタワクのグランドマスターなのだから。』と答えると、バコンは『私は戦わない。誰か戦う者はいないのか?』といったので『私が戦います』と手を挙げると、『おまえはまだ不十分だ。勝てるかどうか実力をチェックする。』とバコンがいった。」とバコンとのバハドにいたる経緯を語っています。

「それは1975年のことで、私は37歳、バコンは63才だった。」、「3回(ラウンド)戦って、私が勝った。」とバハドの勝利を語っています。

バハドにいたる経緯については、著書では多少違っています。刑務所から出所した後のバコンは、刑務所で改良したアーニスを弟子たちに受け入れさせようとしたが、誰もいうことを聞かなかったため、常にイライラしていたと前置きし、

「不満と怒りから、アンションは、だれかれ構わず不意にスパーリングを要求したが、みんな驚いて、辞退した。」「するとアンションは身振りを交えて、『イシン。私とスパーリングしろ。』といった。」とバハドにいたる経緯を書いています。

2020年にイシンが出版した本。自らのスタイルをオリジナル・サアベドラ・スタイルと名乗っている。

バハドについてインタビューでは内容について語っていませんが、著書には詳しく書いてあるので、以下要約します。

1ラウンド目の途中までは、「イシン、肩に気をつけろ。」、「アンション、あなたこそ。」と会話を交えながらの友好的な技の応酬で、ターゲットも肩と脚に限定していたが、途中から両者ともしだいに熱を帯びてきた。

2ラウンド目が始まったときには、バコンはすでに本気になっており、イシンもインターバル中に、ロペス殺害の件での恨みがよみがえってきたことで、2ラウンド目は両者とも殺気を帯びた、本気の攻撃の応酬になった。

危険を察知した周囲の弟子たちが「ストップ、ストップ」と叫んだ瞬間、イシンのスティックが、バコンが口にくわえたタバコを打ち飛ばし、バコンがカウンターを打とうとするスティックをディスアームし、バハドはイシンの勝ちとなった。

著書ではバハドは2ラウンドで終了しています。

インタビューではさらに、「バコンはバリンタワクのグランドマスターで彼には誰もかなわなかった。」「デルフィン・ロペスも2回戦ったが、2回とも負けた。」、「2回目のときバコンはこういった。」「ここにバリンタワクの全メンバーがいる。デルフィン・ロペス、おまえはこのなかで最強だ。私はスティックで打たない、左手でスラップするだけだ。」、「デルフィン・ロペスはスラップだけで負けた。」とバコンの強さ強調し、そのバリンタワクNo.1のバコンやNo.2のロペスを越え、自分がバリンタワク最強のファイターになったことを語っています。

また、イルベイグが行ったインタビューでイシンは、ロペスとバコンのバハドについて語り、ロペスが負けた原因は、「デルフィンはドーリンの技術を完全に身につけていなかった。」からだと述べています。

つまり、バコンとのバハドに勝ったことで、イシンこそがドーリンの技術の完全な継承者であり、ロレンソ・サアベドラのコルト・リニアルの真の継承者であることが証明されたのでした。同時に、ドーリン系統のバリンタワクがバコン系統のバリンタワクよりも優秀であることも証明されたのでした。

ただし、イシンがバコンに勝ったという話は、2020年にイシンが初めて著書で公表するまでは、誰も聞いたことがない話であり、当時を知る関係者ももはやいないことから、真偽の確かめようはありません。

参考資料

  1. Bautista, Joe A. Canete still Unbeatable at 64, Atlas Weekly Sports Magazine, Vol. Ⅹ, No. 490, Quezon City, Atlas Publishing, October. 21-28. 1983.
  2. ●Living History: GGM Crispulo Ising Atillo Interviewed by Legacy World Claudio Maurelli. URL:https://www.youtube.com/watch?v=TgmtGZtkbtA. (December 3, 2023).
  3. History of Balintawak Eskrima by GGM Crispulo Atillo. URL:https://www.youtube.com/watch?v=iuc3cKcbQNo. (December 18, 2023).
  4. Atillo, C. I. (2020). Atillo Balintawak Eskrima. Crispulo Atillyo & Glen Boodry.

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