モロの歴史(2)

ザンボアンガの絵 フィリピンの歴史
18世紀末の航海記録に描かれたザンボアンガ。右にスペインの見張り台、その下に2問の大砲が見える。

前回のブログでは、17世紀までのモロの歴史を説明しました。今回は18世紀以降のモロの歴史について説明します。

モロ戦争の再開

1661年、明朝の遺臣、鄭成功が台湾からオランダを追い払うと、翌年、マニラのスペイン政庁に対し朝貢を要求しました。これに脅威を感じたスペインは、兵力を北部に移して台湾からの侵攻に備えたため、1663年、ザンボアンガに築いたスペイン軍の要塞は放棄されてしまいました。

しかし、ミンダナオ島での布教活動を望むイエズス会の圧力を受け、スペインが1718年にザンボアンガを再占拠し、翌年に再び要塞を築くと、スールー王国のタウスグ人やサマール人、マギンダナオ王国のマギンダナオ人、イヌラン人、マラナオ人などのモロは、あるときは連合して、あるときは単独でザンボアンガを襲撃しました。

これが1850年まで続く第5次モロ戦争の始まりで、モロがビサヤ諸島やルソン島南部を襲撃し、住民や物資を略奪すると、スペインもマギンダナオ王国やスールー王国、それらを構成する各部族の根拠地などを襲撃し、互いに報復や略奪を繰り返しました。

そのようななかで、マギンダナオ、スールーの両国は、外国との関係を強めてスペインをけん制すると同時に、交易の拡大による兵力、経済力の強化をはかりました。両国ともバタビアに拠点を置くオランダに接近して武器の入手に努めるとともに、スールー王国は、長年途絶えていた中国への朝貢を1726年に再開し、1763年までに合計5回の朝貢を行いました。

スールー王国と奴隷狩り

18世に入り、清朝が最盛期をむかえ、中国人の生活が豊かになると、スールー王国には、あわびや乾しナマコ、フカヒレ、真珠母貝などの海産物を求めて中国人商人が進出してくるようになりました。

当時のホロ島で扱った乾しナマコは33種類あり、それぞれが3等級あっため、乾しナマコだけでも100種類ほどあり、そのすべてが中国に輸出されていました。そして、乾しなまなどの海産物の生産には大量の労働力が必要であったため、支配階層であるダトゥ(首長)たちの勢力や威信、富は所有する奴隷の数で決まりました。

そのため、スルタンやダトゥたち(タウスグ人)は、支配下のサマール人やイラヌン人に、資金や武器、装備、食料などを支給し、船団長や戦闘隊長、舵取りなどを任命して海賊船団を組織させました。海賊船には、海賊術を覚えるための12歳から15歳の少年や、海賊の経験を伝えるための老人、イスラム教の導師なども乗っており、海賊船がひとつの社会となっていました。

船団は、ホロ島の東側にあるパランギンギ島(実際にはサンゴ礁)で、小さなもので10隻以下、大きなものでは40~50隻の船で組織され、6月から9月に吹く南西の季節風を利用して北ボルネオやフィリピンを、1月から3月にかけて吹く北東の季節風を利用してスラウェシ島を襲いました。

フィリピンを襲う船は、パランギンギ島から北上し、ビサヤ地方沿岸部を襲撃、さらに北上してルソン島を沿岸部を襲撃して回った後、再ビサヤ地方沿岸部を襲撃してパランギンギ島に戻りました。

略奪された奴隷はそこで米や綿布、大砲、アヘンなどと交換されましたが、最も多く交換された品は米でした。サマール人やイラヌン人は、タウスグ人のスルタンから米を前借りしていたからです。そしてそのスルタンに米や綿布を提供していたのが中国人商人だったといわれています。そう考えると海賊団の本当の組織者は中国人商人だったともいえます。

スールーの交易が頂点に達した1830年代には、年630トンの乾しナマコと760トンの真珠母貝が生産輸出され、これに従事した人口は奴隷も含めて7万人と記録されています。

また、J・F・ウォーレンは、1770年から1870年の100年間に、20万から30万の奴隷がスールーに連れられたと推測しています。海賊活動が最も盛んだった1836年から48年には、毎年3000~4000人の奴隷がホロ島に運ばれ、1850年のスールーの人口の半数は奴隷か奴隷の子孫だったといわれています。奴隷の7割はビサヤ人であり、残りはボルネオ、マラッカ海峡、スラウェシ、マルク諸島を襲って捕らえたものでした。

18世紀後半から始まるこの奴隷狩りは、それまで行われていた宗教戦争の報復としての奴隷狩りとは違い、スルタンやダトゥたちの富と権力を支える生産手段の確保を目的としていました。そのため、奴隷狩りは年々激化し、奴隷による海産物の生産と交易の発展によって、スールー王国は19世紀半ばに最盛期をむかえました。

フィリピン人の被害

スペイン人到来以前のフィリピンでは、人びとは各地に散在する、パランガイと呼ばれる小規模の集落に住んでいました。しかし、スペインがフィリピンを統治するようになると、住民を管理しやすいように教会の近くに集めて住まわせ、スペイン人に反抗しないように武器を取り上げたため、モロの海賊は効率的に海賊行為を行うことができるようになりました。

モロの海賊は沿岸部の町や村を襲撃し、住民を殺戮し、奴隷にしましたが、住民が運よく石造りの教会に逃れて生き延びたとしても、町や村は焼かれて灰となり、農具や漁具、船が略奪され、農業も漁業もできなくなりました。また、村が消滅したり、住民が困窮化すると、税金が取れなくなるため、スペインにとっても大きな損害となりました。

ミンドロ島では1735年の1年間で、人口が3169戸から2634戸に減少し、レイテ島では1754年の3月、5月、6月に海賊の襲撃を何度も受け、2大都市のソゴドとマアシムが完全に焼けて灰となりました。パナイ島のカリボでは、1750年から1757年の間に貢税人口が1174人から549人に減少しています。

1758年、マニュエル・マトス司教はスペイン国王への手紙に「カマリネスの12の町がモロの襲撃を受け、8000人の住民が殺された。」と書いています。

また、モロの海賊は地域の海上交通も妨害しました。フランシスコ会の教区神父は、1770年に「モロが海上を支配しているため、ビコール島の町はどこも交易ができず、とても貧しい状態にある。」と報告しており、1826年までに同島西岸の町はどこも捨て去られてしまいました。

海だけでなく大きな川に魚を獲りに行くときも危険でした。モロの海賊は、漁民に変装し、母船から小さな船に乗り換え、マングローブや洞窟、大河川などに潜むこともあったからです。あるスペイン人は、数名の漁師が海賊にさらわれるのを、山の上から目撃したことを記録しています。

毎年襲来する海賊により、村や町が焼き尽くされ、財産が奪われ、家族が殺されたり奴隷にされたこの時期を、あるスペイン人の作家は、フィリピンの歴史のなかの「血と涙で書かれ、痛みと苦しみで形作られた」時期だと述べています。

ミンダナオ・スールーの衰退

1840年代に入り、最盛期をむかえたスールー王国が、アメリカ、フランス、イギリスと通商条約を結ぶようになると、それらの動きに脅威を感じたスペインは、1948年と51年にホロ島に遠征隊を派遣し、大打撃をあたえました。

ホロ島では激戦の末、海賊基地は根絶やしにされ、家は焼かれ、死体が積み上がり、住民は敵の手に落ちる前に妻や娘を殺したそうです。スルタンは有力なダトゥ(首長)たちを連れて、ミンダナオ島に逃げ延びました。

その結果、スペインとスールーの間で条約が結ばれ、スペインがスルタンに毎年1500ペソ、3人のダトゥに毎年600ペソを支払う代わりに、支配下の住民に海賊行為を止めさせることを約束させました。

そして1870年代に入り、イギリスが北ボルネオで勢力を拡大させると、スペインは1876年にホロ島を占領しました。スールー側のゲリラ活動が続くものの、1878年、スペインは、スルタンと条約を結び、スールーにおけるスペインの主権を認めさせました。だだし、翻訳された条文の食い違いから、スルタンは保護国にすぎないと主張しています。

一方、ミンダナオ島のマギンダナオ王国は、19世紀には衰退し、スルタンは、1805年にスペインと友好関係を結び、1837年には首都コタバトにスペインの商館の建設を認め、1845年にはスペインの保護下に入りました。そして1860年、スペインはミンダナオ島全域とバシラン島を含む地域に、ミンダナオ軍政府を発足させコタバトを占拠しました。

しかし、プランギ川中流域を支配していたブアヤン王国は、南下してサランガニ湾に出て、スールー王国に変わって奴隷貿易を支配し、スペインに抵抗しました。ブアヤン王国のダトゥ・ウトは、1870年代半ばには、4000から5000人の奴隷をかかえていたものの、マギンダナオ人を結集することができず、1886年から87年の戦いでスペインに敗退しました。

ミンダナオ島には、19世紀後半にはモロをまとめる力のある指導者はいなくなり、マギンダナオ王国では、1888年から96年までスルタンを選出できない状態になりました。また、スールー王国でも1876年に王都を占拠されて以降、スルタンや有力ダトゥの指導力は低下しました。

最後の抵抗

マギンダナオ王国もブアヤン王国も19世紀後半には勢力を失い、ミンダナオ島の大半をスペインに支配されましたが、スペインは大きな町という点を支配したにすぎず、結局スペインは333年間のフィリピン統治の間にミンダナオ島に1度も完全な支配権を確立することができませんでした。

マギンダナオが勢力を失った19世紀の後半からアメリカ統治の初期の1910年ぐらいまでの間、ミンダナオ島のモロは、スペイン人が「ホラメンタード」と呼ぶ自爆テロを盛んに行うようになりました。

斎戒沐浴し、全身の毛を剃り、白衣を身につけたモロの決死隊が、白昼に大声をあげながらスペイン軍やアメリカ軍の駐屯地に突進し、銃弾を何発も撃ちこまれても跳ね起きては斬りつけていきました。

モロの決死隊は、矢、銃剣、銃、クリス(短刀)で武装し、有刺鉄線に肉体を引き裂かれ、何度も銃弾を受けながらも、有刺鉄線を突破し、ライフルと大砲で武装したアメリカ人に対して死ぬまで戦いました。ダトゥ・パングリマ・ハッサンの自爆テロを止めるのには、10数発の銃撃を必要としたといわれています。

スペイン軍もアメリカ軍も、そして、それらの軍の兵士であったクリスチャン・フィリピノも、このホラメンタードをひどく恐れ、モロは常に彼らに恐怖を呼び起こさせる存在となりました。

また、米西戦争の結果、スールーを含むフィリピンがアメリカに譲り渡されると、スペインが結んだ条約もアメリカに引き継がれましたが、スペインとスールー王国が結んだ条約に翻訳の食い違いがあったことから、スールー王国とアメリカの間で戦争が始まりました。

アメリカがルソン島で独立派と戦っている間、キラム・ベイツ条約を結び、一時休戦したものの、1904年、アメリカが条約を破棄すると、スルタンのハマルル・キラム2世は、スールーのすべてのモロにアメリカと戦うように呼びかけ、その後9年間、アメリカに対するゲリラ戦が繰り広げられました。

参考資料

  1. 池端雪浦 編集(1999)「東南アジア史Ⅱ 島嶼部」 山川出版社
  2. 鶴見良行(1994)「マングローブの沼地で―東南アジア島嶼文化論への誘い」朝日新聞社
  3. 門田修(1990)「海賊のこころ―スールー海賊訪問記」筑摩書房
  4. Non, Domingo M. (1993). Moro Piracy during the Spanish Period and Its Impact. Kyoto University Research Information Repository. URL: http://hdl.handle.net/2433/56477.
  5. “Moro Rebellion” 『フリー百科事典 ウィキペディア英語語版』。2023年8月31日18時 (日本時間) 、URL: https://en.wikipedia.org/wiki/Moro_Rebellion.

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