20世紀のアーニス/エスクリマ

結成当時のドセ・パレスの写真 アーニスの歴史
結成当初のドセ・パレスの写真。前列右から3番目がロレンソ。2列目左から2人目がドーリン。

今回は、スペイン統治時代に生まれたアーニスが、20世紀に入ってからどのように発展していったのかを、現代アーニスの父、ロレンソ・サアベドラの人生を追いながら書いていきます。

20世紀初頭のアーニス

19世紀後半、スペイン軍が蒸気船を導入し、その速度が海賊のカラコア船を上回るようになると、沿岸部の住民を悩ませたモロの海賊行為はしだいに減少し、海賊から町や村、家族を守るための戦闘術だったアーニスは、地域や一族に伝わる個人の護身術へと変化していきました。

そして、20世紀に入りアメリカがフィリピンを統治するようになり、アメリカから野球やバスケットボールなどのスポーツが導入され、人びとの間でスポーツを楽しむ文化が広まると、アーニスもスポーツとして世間の注目を集めるようになり、多くの人に練習されるようになりました。

スペイン統治時代には、フィリピン各地で、地域や一族独自のアーニスが生まれ、練習されるようになっていましたが、その中心地は、ビサヤ地方最大の都市、セブでした。20世紀初頭のセブでは、何人もの有名なエスクリマドール(アーニスの使い手)が現れ、いくつものアーニス団体が組織されました。

その最も中心にいた人物が、現代アーニスの父、ロレンソ・サアベドラです。このサアベドラが20世紀前半に導入したアーニスの技術やシステムが、その後、フィリピン各地に広まり、現代のアーニスの標準となりました。サアベドラがいなければ、現在世界に広まってるアーニスはなかったといっても過言ではありません。

ロレンソ・サアベドラ

現代アーニスの父とは言われるものの、ロレンソ・サアベドラについての情報は極めて少なく、2020年に、バリンタワクのエスクリマドール、イシン・アティリョが “Atillo Balintawak Eskrima” を出版するまでは、1920年以前の彼の半生はほとんど謎でした。 

イシン・アティリョの父、ビンセンテ・アティリョは、サアベドラの親類であり、一時期サアベドラはアティリョ家に身を寄せていたため、アティリョの本によって初めてサアベドラについて、ある程度の情報が得られるようになりました。以下、イシン・アティリョが語るサアベドラの半生を記します。

ロレンソ・サアベドラは、1952年にセブのカルカルで生まれました。彼がアーニスをどこで学んだかについてはははっきりしませんが、おそらく家族の誰かから家伝のアーニスを学んだ後、セブ各地のマスターたちについてアーニスを学んだのではないかと、アティリョは推測しています。

彼は「ソロ・オリシ」(一本のスティックで戦うスタイル)と「プンタ・イ・ダガ」(右手に刀、左手にナイフを持って戦うスタイル)を得意としており、彼の弟子がのちに語ったところでは、そのスタイルは、「コルト・リニアル」や「デ・カデナ」、「デ・クエルダス」と呼ばれていたそうです。

1872年にマニラ湾口にあるスペインの海軍基地、カビテ港で反乱軍人62人が、スペイン人司令官や将校を殺害する事件(カビテ反乱)が起きると、スペイン人による支配に異議を申し立てていた、ゴンザレス、ブルゴス、サモラの3神父は、反乱の首謀者であるという濡れ衣を着せられて処刑されました。(ゴンブルサ事件)

フィリピン民族革命の英雄、ホセ・リサールが抗議したこの事件は、フィリピン民族主義精神の出発点といわれる出来事ですが、中部のセブでも多くの若者が民族主義運動に参加していました。当時20歳のサアベドラも、反植民地運動を支持し、スペインに対する反乱に加わっていたため、1872年、スペイン当局に逮捕され、セブ州立刑務所に収監されました。

刑務所のなかでサアベドラは、あるフランス人と仲良くなり、そのフランス人からフランスの古典的な剣術、エスクリマを教わりました。自分が学んだフィリピンのエスクリマでフランスのエスクリマと戦いましたが、まったく歯が立たず、あきらめてフランス人に弟子入りしたそうです。また、バラウ・スグボ(セブ式ナイフ術)の伝説によると、サアベドラはこのフランス人から「アルネス・ディアブロ」と呼ばれるナイフ術も学んだそうです。

サアベドラとフランス人のエスクリマの練習は、練習場所が刑務所内であったことから、夜中に、誰にも見られないところを選んで行われました。フランス式のソード&ダガー(右手に刀、左手にナイフを持って戦うスタイル)の練習は、刑務所であることから刀が入手できないため、木製の代用品で行われました。

アティリョは、サアベドラが、このような制約に合わせて、エスクリマの技術を木製の武器でも使えるような形に変えたのではないか、さらには刑務所という危険な環境のなかで、木製の武器でも身を守れるように技術を改良したのではないかと推測しています。

サアベドラがいつ刑務所から出所したのかもわかってはいません。セブ州立刑務所の記録が失われているからです。しかし、1902年7月4日にセオドア・ルーズベルトによって出された大統領布告483号には、1896年8月から、フィリピンがアメリカに譲渡された1898年までの間に、スペインやアメリカに対する反乱に参加したり、それを支援したものの恩赦が明記されています。

これには1896年以前のスペインに対する反乱も含まれているとの解釈があり、実際、それに該当する多くの政治犯が釈放されていることから、サアベドラもこの布告により出所したのではないかと推測できます。

しかし、アティリョは、セブ州立刑務所に残されたわずかな記録や、サアベドラの弟子たちの証言から、サアベドラが出所したのは、フィリピンに将来の独立と自治権を認めたジョーンズ法がアメリカで制定された1916年のことだと推測しています。

出所後のサアベドラは、サンニコラスで家族とともに暮らし、甥のペドリンとドーリンにアーニスを指導しましたが、世間のアーニスへの関心や人気が高まるにつれ、サンニコラスやラバンゴン、マンバリンで、有志の若者たちにアーニスを指導するようになりました。

ラバンゴン・フェンシング・クラブ

アーニスへの世間の関心が高まった1920年、ロレンソが中心となり、セブの6つのスタイルのアーニス・グループが集結し、それぞれの知識や技術を分かち合い、アーニスを普及、発展させることを目的に、ラバンゴン・フェンシング・クラブが結成されました。

この当時のアーニスのほとんどは、刀を使ってモロの海賊と戦っていた時代のスタイルか、その名残を強く残すスタイルでしたが、実際の練習は刀の代わりにスティックを使っていたため、スティック向きに技術が変化している最中でした。

サアベドラも、ラバンゴン・フェンシング・クラブでは、切る動作を主体とした古典的なエスクリマではなく、木製の武器を使って、打つ、突く動作を主体とした、スティック向きに改良したアーニスを指導していました。

そして、サアベドラの指導するこのクラブでは、サアベドラの甥のペドリン・サアベドラやドーリン・サアベドラ、ヨーリン・カニエテ、モモイ・カニエテなどのセブのアーニス界の次世代を担うエスクリマドールが育っていきました。

しかし、クラブを構成するグループ同士の対立が激しく、あるグループが演武すると他のグループがそれを冷やかすなど、クラブの運営がしだいに困難になり、しまいには別のグループ同士が鉢合わせしないようにスケジュールが組まれるまでになりました。

クラブの運営は資金的に苦しく、寄付に頼ることが多かったのですが、あるときセブ市長からの500ペソの寄付が行方不明になり、メンバー同士がお互いをののしり合うようになりました。サアベドラは犯人捜しを禁じたため、問題が解決できず、結局クラブは結成当初の目的を達しないまま1930年に解散してしまいました。

ドセ・パレス

それから2年後の1932年、さまざまなスタイルのエスクリマドール同士が交流することで、アーニスを発展させることを目的に、サアベドラ家とカニエテ家が中心となって、カニエテ家の長男、ヨーリン・カニエテを総裁、ロレンソ・サアベドラの甥、ドーリン・サアベドラを副総裁とするドセ・パレスが結成されました。ドセ・パレスでは、前回と同じ轍を踏まないよう、参加メンバーを厳選したそうです。

ドセ・パレスの名前の由来は、シャルルマーニュ王に仕えた12人の騎士(12 peers)にあり、彼らの使った剣術がフランス剣術に発展したという伝説があることから、サアベドラが、刑務所で自分にフランス剣術を教えてくれたフランス人に敬意を表してつけてものだといわれています。

サアベドラがドセ・パレスで指導したのは、「コルト」と呼ばれる、相手に接近して戦うスタイルでした。コルトは、使う武器が刀からスティックに変化し、相手の武器が体に触れても怪我をしなくなったことで生まれた、スティックで戦うためのスタイルです。

2013年、ドセ・パレスの創設に最年少の13歳で参加したカコイ・カニエテに、私がインタビューしたところ、カコイは「戦前のドセ・パレスでは、スペイン時代の名残を残すエスパダ・イ・ダガの練習が中心だった。」と語っています。

コルト・オリヒナル。相手に接近し、スタンスを広く取り、相手の攻撃をしっかり受け止めるのが特徴。

このエスパダ・イ・ダガは、右手に刀、左手にナイフを持ち、相手と離れた間合いを取って戦う、スペイン時代のエスパダ・イ・ダガではなく、右手にスティック、左手にナイフを持ち、相手に接近した間合いを取って戦う、20世紀に生まれたエスパダ・イ・ダガでした。このスタイルは、相手に接近したコルトの間合いをとるため、「コルト・オリヒナル」とも呼ばれています。

サアベドラはこの技術を、ヨーリン・カニエテやモモイ・カニエテに伝えましたが、特にモモイはこのエスパダ・イ・ダガを好み、後にエスパダ・イ・ダガの名手として名をはせます。

また、ロレンソは、スティックを1本持ち、相手に接近して戦う「コルト・リニアル」と呼ばれるスタイルも指導しました。相手に接近した間合い(コルト)から、剣術の名残を残した直線的な(リニアル)ストライクを打つこのスタイルは、ロレンソの甥のドーリンが最も得意としたスタイルで、ドーリンはこのコルト・リニアルの技術で数々のバハド(チャレンジ・マッチ)に勝利し、ドセ・パレスの名前を高めました。

ロレンソはこのコルト・リニアルの技術を、甥のドーリンとアンション・バコンに伝え、ドーリンはこれをビンセンテ・アティリヨやデルフィン・ロペスに伝えました。

ロレンソの指導の下、高名なエスクリマドールたちが、最新のアーニスの技術を開発し、指導するこのクラブは、フィリピン全土にその名をとどろかせ、多くのクラブがドセ・パレスの技術を取り入れるようになりました。(それにより、古典的なアーニスの技術は衰退していきました。)

戦後のドセ・パレス

1942年4月、日本軍がセブを占領すると多くのフィリピン人が抗日ゲリラとなり日本軍に抵抗しました。ドセ・パレスからも、ドーリン・サアベドラやアンション・バコン、デルフィン・ロペス、カコイ・カニエテなどがゲリラ部隊に加わり日本軍と戦いました。

戦後、ドセ・パレスのトップファイターであったドーリンが太平洋戦争中に日本軍の憲兵隊に殺され、ロレンソもその後を追うようにして1945年に亡くなると、残りのサアベドラ家のメンバーもアーニスから距離をおくようになり、ドセ・パレスからサアベドラ家の影響力がなくなりました。

新たに再建されたドセ・パレスの内部では、しだいにカニエテ家の支配するクラブに不満をもつグループが出てきましたが、ロレンソの愛弟子で、ドーリン亡き後、ドセ・パレスのトップ・ファイターとなったアンション・バコンもそのうちのひとりでした。バコンが、カニエテ家との激しい論争の末、1952年にドセ・パレスを脱退すると、バコンの弟子たちの多くがバコンの後を追ってドセ・パレスを脱退しました。

バコンが翌年、セブのバリンタワク・ストリートにバリンタワク・セルフ・ディフェンス・クラブを設立すると、ドーリンからコルト・リニアルを学んだデルフィン・ロペスやビンセンテ・アティリヨもドセ・パレスを脱退しバリンタワク・グループに加わりました。

バコンが脱退したことで、ドセ・パレスのトップファイターとなったカコイ・カニエテは、すぐさまバリンタワク・グループとの闘争を専門とする団体「サニムサ」を結成し、ドセ・パレスの武闘派メンバーを結集してバリンタワク・グループとの闘争に備えました。

これ以降、カコイを中心とするドセ・パレス・グループとバコンを中心とするバリンタワク・グループは、70年代までの間、セブの各地でバハドや道場破りを繰り広げ、その激しい抗争のなかで双方のアーニスの技術を発展させていきました。

参考資料

  1. 大嶋良介「セブ島のアーニス:第1回 スペイン剣術とアーニスの成立」『月刊秘伝 2020 APR. 4』2020年3月14日, BABジャパン。
  2. 大嶋良介(2013)「公開!フィリピン武術の全貌」東邦出版。
  3. Atillo, C. I. (2020). Atillo Balintawak Eskrima. Crispulo Atillyo & Glen Boodry.
  4. 鈴木静雄(1997)「物語 フィリピンの歴史―『盗まれた楽園』と抵抗の500年」中央公論新社。
  5. Nepangue, N. R. (2007). Cebuano Eskrima: Beyond the Myth. IN. Xlibris Corporation.

コメント

タイトルとURLをコピーしました