バリンタワク・エスクリマ(1)

バリンタワク創設メンバーの写真 アーニスのスタイル
バリンタワク・グループ。前列左から2番目がデルフィン・ロペス、3番目がアンション・バコン。

アーニスがブレード・ファイティングの要素を強く残していた20世紀初頭に、現代アーニスの父、ロレンソ・サアベドラが伝えた最新のスティック・ファイティングが「コルト・リニアル」でした。

今回は、ロレンソの愛弟子のアンション・バコンと、バコンがコルト・リニアルを伝えるために創設した、バリンタワク・エスクリマについて書いてみます。

アンション・バコン

アンション・バコンは、1912年にセブのカルカルで生まれました。幼少のころにアーニスの聖地といわれる、セブのサン・ニコラスに移住し、10代のころからロレンソ・サアベドラの下で、ロレンソの甥で1歳年上のドーリン・サアベドラとともにアーニスを学びました。

ロレンソは、1920年にラバンゴン・フェンシング・クラブを設立していますが、バコンとドーリンは子供だったためクラブには加わらず、それとは別にロレンソの指導を受けたそうです。そして、ロレンソとカニエテ家が、1932年にドセ・パレスを創設すると、バコンは、最年少で役員に選出され、以後ドーリンとともドセ・パレスのトップファイターとして名をとどろかせました。

当時のアーニスは右手にスティック、左手にナイフを持つ、スペイン剣術の名残を残すエスパダ・イ・ダガが主流でしたが、ロレンソはドセ・パレスで、スティックを1本だけ持ち、接近した間合い(コルト)から直線的な(リニアル)ストライクを打ち込むコルト・リニアルを指導しており、バコンは、このコルト・リニアルこそが最も実戦的なアーニスだと考え、好んで練習しました。

特にバコンは、自由になった左手で、相手の手や腕などを押したり、引いたり、止めたり、払ったりしてコントロールする「タピタピ」と呼ばれる技術を研究し、コルト・リニアルの技術を発展させ、ドセ・パレスではドーリンに次ぐファイターとなっていきました。

このタピタピの誕生にはひとつの伝説があります。バコンは伝統的なエスパダ・イ・ダガの練習を嫌い、左手のナイフで相手を小突いて遊んでいたため、ロレンソがバコンからナイフを取り上げてしまい、その結果、空いた左手の使い方を研究することでタピタピが生まれたというものです。

この伝説は、アーニスの主流がエスパダ・イ・ダガからシングル・スティックへと変わった理由としては、正しい側面がありますが、コルト・リニアルは、ロレンソの若いころからある技術です。1930年代初頭のドセ・パレスではすでに、コルト・リニアルにより空いた左手を使ったディスアームの技術が、イェスス・クイによって導入されており、バコンがタピタピを発明したという話は伝説にすぎません。

ただし、この伝説が生まれたのも、バコンが左手の使い方を熱心に研究することでコルト・リニアルの技術を発展させたからであり、現在、世界のアーニスの標準がシングル・スティックになっているのもバコンの研究のおかげだといます。

ドセ・パレスからの脱退

太平洋戦争でドーリンが戦死し、ロレンソもその後を追うように亡くなると、ドセ・パレスに残るサアベドラ系の役員はバコンだけとなり、カニエテ家がクラブを支配するようになりました。

ジョイント・ロックを極める、アンション・バコン。

戦後のドセ・パレスでは、ヨーリン・カニエテのラルゴや、モモイ・カニエテのエスパダ・イ・ダガ、カコイ・カニエテのコルト・クルバダが中心に練習されるようになりましたが、バコンは、それらのスタイルの実戦性に疑問を持っていました。

また、バコンは、サアベドラから教わったフィリピンのアーニスにこだわりを持っていましたが、カニエテ家は、ドセ・パレスに日本の武道のベルト・システムや、柔術、柔道、空手などの技術を導入していったため、クラブの指導や運営をめぐって激しい対立が起こるようになりました。

結局バコンは1952年にドセ・パレスを脱退し、セブのバリンタワク・ストリートに自らが理想とする、当時では珍しいシングル・スティックのアーニス、コルト・リニアルを専門とするバリンタワク・セルフディフェンス・クラブを設立しました。

バコンが新たなクラブを設立すると、バコンの弟子だけでなく、ドーリンの下でコルト・リニアルを学んだビンセンテ・アティリョやデルフィン・ロペスなども、ドセ・パレスを脱退してバコンの下に集まり、以後バリンタワクとドセ・パレスはセブの各地で激しい抗争を繰り広げるようになりました。

バリンタワクの由来

バリンタワクという名称の由来は、バコンが最初に道場を開いた場所が、弟子のエドワルド・バクリがバリンタワク・ストリートに構えた時計修理店の裏庭だったからだと一般にいわれています。

しかし、2021年6月17日に、クラウディオ・マウレリがビンセンテ・アティリョの息子、イシン・アティリョに行ったインタビューで、イシンは、「バコンが最初に練習場所としたのは、我々の練習場所であるマンバリンであった。」と語っています。

そのときバクリがバコンに「マンバリンに練習場所を確保しましたが、市の中心部には誰が練習場所を確保するのですか。」と聞いたこころ、バコンが「お前はどこに住んでいる。」と聞いたので、バクリが「バリンタワク・ストリートです。」と答えると「ならばバリンタワクにしよう。」とバコンがいったのが、バリンタワクという名称の始まりだとイシンは語っています。

バリンタワク・ストリート。この路地にあった時計修理店の裏庭が最初の道場だったといわれている。

バリンタワク・ストリートは、セブの下町のメイン・ストリート、コロン大通りに隣接する小さな路地で、バクリの裏庭は6×6メートルほどの広さでした。ドセ・パレスから脱退した弟子たちを収容するのには狭すぎることを考えると、マンバリンを最初の練習場所と考える方が納得できます。ただし、イシンが語るセブのアーニスの歴史は、自分やマンバリン・グループの宣伝が大いに入っているので断定はできません。

どちらが最初の練習場所だったにせよ、バリンタワク・ストリートにあったバクリの時計修理店が名称の由来であることに間違いはありません。しかし、バリンタワクという名称にはもうひとつ別の意味がありました。

フィリピン独立時の1896年8月、独立革命組織、カティプナンを率いるアンドレス・ボニファシオが、スペイン支配の象徴である、地域税証明書を破り捨て、スペインに対する蜂起を呼びかけた出来事がありました。この出来事は「バリンタワクの叫び」と呼ばれており、独立革命の発端となったため、フィリピンの各地にはバリンタワクの名を冠した場所があります。

バコンが最初に道場を置いたといわれる、セブのバリンタワク・ストリートもそのひとつですが、バコンの頭のなかには、自分の新しいクラブが、ドセ・パレスというフィリピンで最も有名なアーニス・クラブに挑む、革命組織だという意識もあったのでしょう。

名称をめぐる戦い

また、新しく設立したクラブに、新たな名前がつけられる裏にもドラマがありました。

バコンはドセ・パレスから脱退することを決意したとき、ドーリンの弟子のビンセンテ・アティリヨとデルフィン・ロペスにそのことを相談しました。バコンが、ロレンソのスタイルを正しく伝えるためにドセ・パレスから脱退することと、新しいクラブを立ち上げてそのクラブに新しい名前をつけることを2人に伝えると、ドセ・パレスから脱退することには2人とも賛成しましたが、新しい名前をつけることにはロペスが反対しました。

ロペスは、ドセ・パレスという名前は、ロレンソが刑務所で友人となったフランス人に敬意を表してつけたものであり、ドセ・パレスの名前を広めたのはドーリンが数々のバハドを勝ち抜いたからであると語り、ドセ・パレスという名を残してサアベドラ・ドセ・パレスにすべきだと主張しました。

しかし、バコンは、カニエテ家と完全に関係を断つためには、ドセ・パレスという名前は捨てるべきだと譲らず、激しい口論が数週間続きました。結局2人はバハドで決着をつけることになり、バコンが勝ったことで、ドセ・パレスの名前は捨てることとなりました。

ロペスがバコンに強く出られたのは、バコンを追ってドセ・パレスを脱退した者のほとんどがバコンの弟子であったのに対し、ロペスとビンセンテはバコンの弟子ではなくドーリンの弟子であったため、バコンの弟子たちがバコンに対して持つような敬意や遠慮がなかったからでした。

バリンタワク・グループ

バコンが、バリンタワク・セルフディフェンス・クラブを設立すると、ドセ・パレスのトップファイターであったバコンの名声と優れた指導システムにより、練習者はあっという間に増え、すぐにバリンタワク・ストリートの道場だけでは生徒を収容できなくなりました。

バコン自身が、マンバリンやマンダウエの弟子の自宅に指導に行くようになり、またセブの各地に練習グループができると、平日はそれらのグループに指導に行き、日曜日には各グループが集まってアンションの指導を受ける合同の練習会も開かれるようになりました。

勢いを増すバリンタワク・グループは、1954年になると新聞を通じてドセ・パレスに挑戦状を送り、ドセ・パレスのカコイ・カニエテがドセ・パレスの武闘派を集めた「サニムサ」を組織してそれに応じると、以後バリンタワクとドセ・パレスの抗争はセブのあちこちで起こり、それはアーニスがスポーツ化する1970年代後半まで続きました。

アンションとカコイのバハドも実現はしなかったものの何度か計画され、これについてカコイは、2013年に私が行ったインタビューで「アンションは友人だったが、周りの人間が我々を戦わせようとした。」と語っており、日の出の勢いのバリンタワク・グループが歴史のあるドセ・パレスを倒して名を上げようとしていた様子がよくわかりました。

この50年代から70年代にかけての両グループの抗争の時代は、セブではアーニスの黄金期と呼ばれており、当時のセブには有名なバリンタワク・グループだけでも、マンバリンのビンセンテ・アティリョのグループ(フィリピン・アーニス連合)や、パシルのティモール・マランガのグループ(トレス・ペルソナス)、パリアンのホセ・ビリャシン、ティオフィロ・ベレスのグループ(バリンタワク・インターナショナル)、マンダウエのオヨン・チェニーザのグループ(クツィリョ)、ラバンゴンのテディ・ブオトのグループ(バリンタワク・オリジナル)、コロンのジョー・ゴのグループ(パラカバナテ)などがあり、それぞれが競い合って、バコンのアーニスを広めていきました。

写真集 ニッケルスティック・バリンタワク

ティオフィロ・ベレスの弟子、ニック・エリザールが主催するニッケルスティック・バリンタワクの練習風景です。

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参考資料

  1. 大嶋良介「セブ島のアーニス:第3回 バリンタワク・エスクリマ アーニスのシステム化」『月刊秘伝 2020 AUG. 8』2020年7月14日, BABジャパン。
  2. 大嶋良介(2013)「公開!フィリピン武術の全貌」東邦出版。
  3. Buot, S. (2016). Balintawak Eskrima. PA. Tambuli Media.
  4. Atillo, C. I. (2020). Atillo Balintawak Eskrima. Crispulo Atillyo & Glen Boodry.
  5. ●Living History: GGM Crispulo Ising Atillo Interviewed by Legacy World Claudio Maurelli. URL: https://www.youtube.com/watch?v=TgmtGZtkbtA. (December 3, 2023).
  6. Galang, R. S. (2005) Warrior Arts of the Philippines. NJ. Arjee Enterprises.

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