アーニス/エスクリマの誕生

エスグリマの絵 アーニスの歴史
18世紀の剣術書に描かれたスペイン式レピア&ダガ。現代アーニスの「クルサダ」と全く同じ技である。

以前のブログでは、モロがフィリピン北部、中部の沿岸部を常に襲撃していたことを説明しました。今回は、フィリピン人がそれら海賊の襲撃にどのように対応し、そのなかで「アーニス」や「エスクリマ」と呼ばれる武術がとのように生まれたのかについて書いてみます。

民間防衛へのシフト

フィリピン中部、北部の沿岸部の住民が、毎年季節風を利用して北上し、町や村を襲撃するモロの海賊に悩まされていたことは、モロの歴史(1)、モロの歴史(2)でも書きました。しかし、スペインもそれに対して何もしなかったわけではありません。

海賊の襲撃に対抗するために、スペインは沿岸部の町に要塞を築き、それらの要塞を沿岸部の要所に築いた監視塔(バンタヤン・サ・ハリ)のネットワークと結び付け、海賊の来襲を素早く知らせるシステムを築きました。また、各要塞には武装したガレー船やフリゲート船の小艦隊を配置し、沿岸部のパトロールも強化しました。マニラや、カビテ、セブ、イロイロ、ザンボアンガ、イリガンには指令基地を設置しています。

バンタヤン・サ・ハリの写真。
ボルホーン教会のそばの山の上に築かれた、監視塔(バンタヤン・サ・ハリ)の遺跡。

また、町や村には住民の避難所となる石造りの教会を建設し、防御力を強化するための防護柵も設置しました。教会や要塞の近くの見通しの良い丘や山の上に監視塔を築き、それらの監視塔同士を結ぶネットワークを張り巡らせ、海賊の襲来を監視塔が発見すると、教会が鐘を鳴らして住民を避難させるシステムも築きました。

しかし、要塞を維持する費用は莫大なものでした。サンボアンガ要塞を例に見ると、1738年の年間固定支出は 17,500 ペソ、付随支出は 7,500 ペソもかかりましたが、これには莫大な費用がかかる武装艦隊の駐留費用は含まれていません。

各地に築いた他の要塞も含めると、植民地政府は年間5万ペソを支出し、ほぼ同額が船の建造や遠征費に充てられていたため、海賊対策のための出費は植民地政府にとって多大な経済的負担となりました。

一方で、町や村の海賊対策は、草の根まで入り込んだ教会の手によって行われ、砦や監視塔などの防衛施設の建設は、ほとんどの場合、スペイン人教区司祭の指導の下、住民の手によって行われました。

司祭たちは、住民の協力を得るために、ときには説得、ときには脅迫など、さまざまな手段を使いましたが、国の防衛費の負担を軽減するため、フィリピン総督が教区司祭に、住民を無償で動員し、自分たちの町に砦を建設する許可をあたえてからは、さまざまな町で、教区司祭の監督の下、住民たちの手で砦や監視塔などの防衛施設が建設されました。

そして、1799年、スペインがモロとの戦争遂行の任務を住民に負担させることを決め、フィリピン人が銃火器などの武器を携帯することを禁止した法律が緩和されると、町や村の防衛自体も、司祭の監督の下、住民たちによって行われるようになりました。

各地の民間防衛基地

パラグア島とパナイ島の間にあるクーヨ島では、住民が政府の費用を一切使わずに、防波堤と弾薬を完備した石造りの砦を建設しました。また、パラグアの北にあるクリオンの町にはスペインの守備隊が駐屯し、司祭の指導の下、住民によってイナパカンに砦が建設されました。

一方、ルタヤ島と隣接する小さな島々の住民は、首都をルタヤとする町を形成しました。砦の建設にあたり、住民はロハス将軍からの資金援助と、政府から武器弾薬の提供を受けましたが、防衛は住民たちだけで担い、政府からは一切援助を受けませんでした。

ルソン島南部のバラヤンでは、町民は内部に教会と修道院を備えた砦を建設し、町の反対側の小高い丘の上に小さな城を建てました。城は海賊の襲来を監視し、警告するための監視塔として使用され、大砲が設置されました。

バタンガスとバウアンでも、住民が、それぞれ石造りと木造の砦を建設しました。町の教会は砦のすぐ近くにあり、教会を囲む壁は防御壁となっていました。タールでも砦が建設され、その後、ミンドロ島のカラパンとサバンにも要塞が築かれました。

サマールでは、各町が教会と教区司祭の住居の周囲に土塁を築き、そこに数門の大砲が据えられました。住民は海賊の攻撃の際にここに避難し、据えられた大砲やマスケット銃、毒矢などを使ってで身を守りました。

サマール島やレイテ島と近接するサン・イグナシオ海峡では、アウグスチノ会司祭のカリャソ神父が5つの小島にそれぞれに小さな砦を築き、大砲を設置しました。これにより海賊は、サン・イグナシオ海峡を通ってサマール島とレイテ島の東側に行けなくなり、レイテ島とミンダナオ島の南東の外海に出る以外に手段がなくなりました。

アーニスの誕生

海賊の襲撃が北部、中部の沿岸部の広範囲に及び、軍による防衛が人的、財政的に難しくなったことで、19世紀に入ると、沿岸部の防衛は、教区司祭の監督の下、現地の住民が担うようになりました。

ビサヤ地域では、そこを教区とするイエズス会の司祭が、住民を動員して砦や防護柵、監視塔などを築きましたが、スペインがビサヤ地域をイエズス会の教区にしたのは偶然ではなく、スペインの戦略だったといわれています。モロとの戦いの最前線に位置するビサヤ地域には、軍隊的な規律を持ち、好戦的な布教を行うイエズス会が適任だったからです。

海賊討伐のために1634年に築かれたザンボアンガに要塞も、イエズス会がホアン・セレソ総督を説得した結果であり、要塞建設の計画も同会のベラ神父が立てたものです。また、要塞を築くためのモロ討伐の戦いで、剣を取って真っ先にモロと戦ったのもイエズス会の修道士たちでした。

モロとの戦いの義務が住民に課せられるようになると、これらの軍務経験のある修道士たちは、住民に海賊と戦うための軍事訓練を施すようになりました。その軍事訓練では白兵戦の訓練も行われ、元軍人の修道士たちは、自分たちが故郷で学び、戦場で磨きあげた、刀(アルマス・ブランカス)を使った戦闘の技術を住民に教えたのでした。

この訓練は、海賊の襲撃が定期的にあるため、短期間で行われ、住民は基礎的な技術しか学べませんでしたが、このとき修道士たちから教わったスペイン式剣術「エスグリマ」や「アルマス」が、現在世界で練習されている、フィリピン武術「エスクリマ」や「アーニス」の原型となりました。

「エスグリマ」や「アルマス」の訓練は徴兵された兵士たちにも、当然ながら、行われました。モロ討伐の兵士のほとんどは地理的に近いビサヤ人でしたが、徴兵はフィリピン各地で行われため、軍隊で「エスグリマ」や「アルマス」を学んだ兵士たちは、故郷に帰ると、それらの技を地元の人たちに伝えたのでした。

彼らが伝えたスペイン武術「エスグリマ」や「アルマス」には、後に、海賊との実戦経験から生まれた地元の人たちの工夫が加わり、各地域や各一族に伝わる独自のフィリピン武術「エスクリマ」、「アーニス」になりました。フィリピン各地にある「エスクリマ」や「アーニス」の技術用語がスペイン語なのはこのためです。

ダン・イノサントは “The Filipino Martial Arts” のなかで、「カリ」はスペインの侵略者を倒した、南部のモロの武術だといいましたが、実際はその逆で、「エスクリマ」や「アーニス」はモロと戦うためにスペイン人から教わった、スペイン由来の武術だったのでした。

セブの防衛システム

イエズス会の司祭の監督下で、セブの沿岸部の見通しの良い場所には「バルワルテ」や「バンタヤン・サ・ハリ」と呼ばれる監視塔が築かれ、それら監視塔のネットワークは沿岸部に張り巡らされました。そして、それら監視塔の近くには、海賊の襲来を知らせ、住民が避難する石造りの教会が築かれました。

オスロブ教会のそばにあるバルワルテの遺跡と、フリアン・ベルメイヨ神父の像。

セブ島東岸では、フリアン・ベルメイヨ神父が海岸沿いにバルワルテをいくつも築き、そのネットワークは、当初はサンタンデールからマンハゲまでのものでしたが、後に北のカラカルまで延長され、96キロにも及ぶものになりました。

さらにベルメイヨは、巨大な石造りの四角形の建物を建て、周りを厚さ1メートルの壁で囲んで海賊に備え、これに感動したフィリピン総督は、必要な武器や弾薬をベルメイヨに提供しています。

見通しの良い山の上などに築かれた監視塔の見張り番がモロの海賊を発見すると、ビルソと呼ばれる大きな音のする大砲を鳴らして海賊の襲来を知らせ、それを聞いた隣の監視塔も同じように音を鳴らし、見張り台が次つぎに海賊の襲来を伝えていきました。

海賊の襲来を知った教会は、鐘を鳴らして住民に危険を知らせ、ベルの音を聞いた住民のうち、女と子どもは厚い壁に囲まれた石造りの教会に逃げ込み、男たちは海賊との戦いに備えました。

また、セブ島のいくつかの町の教区司祭たちは、自分の身だけでなく、従来のシステムでは守り切れなかった、家や畑、農機具などの財産も守る効果的な共同防衛システムを開発しました。

それは、モロの海賊船を追跡するための「バランガヤネス」と呼ばれる、海賊船よりも船足の速い船を効果的に運用するものでした。

このシステムは、監視塔の見張り番がモロ海賊を発見すると、町に警報が発せられ、近隣のいくつかの町で任務に就いている住民たちが、すぐに武器を積んだ「バランガヤネス」を出航させ、あらかじめ決められた海上の場所に集合して海賊に立ち向かうというものでした。

彼らは海賊より優れた船を持っていたため、海賊の攻撃を防ぎ、海賊が海岸に上陸するのを防ぐことができるようになりました。それぞれの教区司祭の指示の下、近隣の町は互いに助け合い、相互防衛に協力したことにより、モロの海賊はセブ島付近には容易に姿を現せなくなりました。

このフィリピン沿岸部の住民と海賊の戦いは、19世紀後半にスペインが海賊船の船足を上回る蒸気船を導入したことで、しだいに沈静化していきますが、セブでは20世紀になっても小規模の襲撃はあったそうです。

中国海賊対アーニス

最後にフィリピン人のアーニスの技術の高さを示すエピソードを紹介します。ドイツの考古学者で実業家のハインリヒ・シュリーマンが中国を旅行したときの記録「シュリーマン旅行記 清国・日本」のなかに、中国人の海賊ジャンクがヨーロッパの船を襲撃した話が書かれています。

1865年、シュリーマンが香港に滞在中、中国人海賊のジャンク船が、デンマークの小型帆船を襲い、船長を殺し、航海士に瀕死の重傷を負わせ、米100トンを奪い、乗組員を縛り上げて船倉に閉じ込め、船ごと沈めた事件がありました。幸い乗組員は縄を解いて脱出し、香港の港までたどりつきました。

この海賊は2,3か月もしないうちに、香港の港の真っただなかで、真夜中の2時に、マニラ向けの貨物を積み終えたスペインの大型船を襲撃しました。シュリーマンの著書には、以下のように書いてあります。

「あっという間もなく200人以上の海賊が甲板に乗りこみ、いっぽうスペイン戦の乗組員はわずか20人だった。それでも乗組員はみな短刀を使うのに長けていて、17人の海賊を殺し、1時間半にわたって分のない戦いをもちこたえた。」、「夜明けに、海賊たちは当初の目的を果たすことができないまま、水夫1人を傷つけただけで逃走した。」

17世紀のスペインのガレオン船の乗組員は、平均140名で、その半分がフィリピン人でした。1720年代にはこの割合はスペイン人1人に対し、フィリピン人2人になっています。19世紀に入るとフィリピン人船員の数はさらに増え、海外にも流出し、西欧列強はフィリピン人船員の数を基準に、他国船の自国植民地への入港を制限したほどでした。

マニラに向かうスペインの商船の乗組員のほとんどはフィリピン人だと考えられることから、フィリピン人がいかに海賊との戦いに慣れていたかが、シュリーマンの話からもよくわかります。

参考資料

  1. Non, Domingo M. (1993). Moro Piracy during the Spanish Period and Its Impact. Kyoto University Research Information Repository. URL: http://hdl.handle.net/2433/56477.
  2. Nepangue, N. R. (2007). Cebuano Eskrima: Beyond the Myth. IN. Xlibris Corporation.
  3. ハインリッヒ・シュリーマン (1998)「シュリーマン旅行記 清国・日本」(石井和子 訳)講談社。
  4. 鶴見良行(1994)「マングローブの沼地で 東南アジア島嶼文化論への誘い」朝日新聞社。

 

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