「カリ」はどうやって広まったのか

フローロ・ビリャブリェの写真 「カリ」についての考察
「カリ」の創始者、フローロ・ビリャブリェ。17歳のとき(左)と晩年(右)。

今回は、フローロ・ビリャブリェが、どのようにアメリカで「カリ」を広めていったのか、なぜ「カリ」がアメリカのフィリピン系に受け入れられたのかを、ダン・イノサントの証言からひも解いてみます。

ダン・イノサントの証言

フィリピン武術研究家のマーク・ワイリーは、アーニスの将来について書いた論文 “Toward Meaning and Understanding” のなかで、「カリを最初に世間に広めたのは、プラシド・ヤンバオである。」と前置きしたうえで、「ヤンバオに次いでカリを広めたのは、アメリカで教えていたフローロ・ビリャブリェであった。」、「彼は自分のエスクリマをカリと名づけた。」と書いています。

また、1932年のドセ・パレスの創設に14歳で加わり、20世紀のアーニスの歴史を生きた、カコイ・カニエテも著書 “Eskrima Arnis Techniques” のなかで、「『カリ』はセブのエスクリマドール、フローロ・ビリャブリェがハワイで創始したもので、のちにアメリカで広まったものだと思う。」と書いています。

しかし、ビリャブリェはカリを自分のアーニスの名前にしただけでなく、他人のアーニスにもカリと名付けようと積極的に働きかけていました。

上の動画は2010年10月にダン・イノサントが、ワシントンDCにあるアメリカ歴史博物館で行ったアーニスの講演(演武)です。後半の質疑応答のパートで質問者が「アーニス、エスクリマ、カリという言葉はどこから来ましたか?」「言葉の由来について、議論になっているようなので教えてください。」と質問したのに対し、イノサントは以下のように答えています。

  • 私はアーニスやエスクリマという言葉を使っていた。私の先生たちの間で、ある先生はアーニスという言葉を使い、ある先生はエスクリマという言葉を使っていたからだ。
  • アーニス、エスクリマはスペイン語で、古い世代はパグカリカリ、カリラドゥマン、カリロンガンという言葉を使っていた。また、フィリピン南部ではシラットやクンタオが練習されていた。
  • アメリカでは、それらのグループ同士が婚姻して、各地に散らばった。
  • 私はカリという言葉を使っている。なぜなら1973年にフローロ・ビリャブリェに会ったときに、カリを使うよういわれたからだ。
  • 私はフローロ・ビリャブリェに口答えせずに従った。
  • 初めてビリャブリェに会ったとき、「おまえはなぜエスクリマやアーニスを使っている。」と問われ、「私の先生が使っているからです。」と答えると、「カリを使え、それこそが名前だ。」といわれた。
  • 「エスクリマもアーニスもスペイン語だ。カリを使え。カリという言葉を使ってくれ。」といわれた。
  • それは1973年のことで、それ以来、私はずっとカリを使い続けている。
  • なぜなら、ビリャブリェだけでなく、私の先生のジョニー・ラコステやラッキー・ルカイルカイもカリを使うことに賛成したからだ。
  • フィリピンの武術家たちはみな、お互い知り合いだったが、仲は良くなかった。そして多くの武術家がアメリカにフィリピン武術を持ち込んだ。(武術家の名前を多数あげるが省略)
  • 名前についての議論は何も新しいことではなく、1973年にはすでに、それらの武術家たちの間で起きていた。
  • 私は父から、その議論については口を慎むようにいわれた。
  • そのため私が本を書くときに、父から「カリは使うな、エスクリマは使うな、アーニスは使うな、シラットは使うな、クンタオは使うな、カリラドゥマンは使うな、カリロンガンは使うな、パグカリカリは使うな。」と注意され、「それでは、何を使えばいいんだ。」というと「Filipino Martial Arts を使え。」といわれた。

証言の分析

この動画を見ていくつか気づいたことを書いていきます。

「古い世代はパグカリカリ、カリラドゥマン、カリロンガンンという言葉を使っていた。」というところですが、これらの言葉は、前述のマーク・ワイリーが “Filipino Martial Culture” のなかで指摘しているように、ヤンバオが「カリ」の存在を証明するために、地方語の辞書のなかから発音が似ている言葉を集めたものであり、すべて実在しない武術です。なので、フィリピンの古い世代の武術家がこれらの言葉を使っていたことはありません。

「フィリピン南部ではクンタオやシラットが練習されていた。」についてですが、ベン・ラーグサが創始したビリャブリェ・ラーグサ・カリのウェブサイトには「スペイン人到来前のフィリピンは、インドネシアの一部であった。」とか「カリはマザーアートであり、シラットやクンタオはその一部にすぎない。」などといまだに書かれてます。

シラットはインドネシアの武術であり、クンタオはインドネシアの華人が伝えた中国由来の武術です。どちらも同じイスラム文化圏のフィリピン南部には伝わっていますが、アーニスとは起源も中身もまったく異なる武術です。アーニスを語る場所で出てくるものではないのですが、「カリはマザーアート」を信じるものには違和感を感じないのでしょう。

「アメリカでは、それらのグループ同士が婚姻して、各地に散らばった。」についてですが、これはクリスチャン・フィリピのとモロの婚姻ということなのでしょうか。長い間戦争をしていた異教徒同士の結婚は、本国ではとても考えられないことですが、アメリカではそのような事実があったのでしょうか。機会があれば調べてみたいです。

「『エスクリマもアーニスもスペイン語だ。カリを使え。カリを使ってくれ。』といわれた。」「それは1973年のことで、それ以来、私はずっとカリを使い続けている。」についてですが、ビリャブリェがアーニスやエスクリマを「カリ」と名付け、ありもしない歴史を作り上げたことは、多くの研究者や武術家が指摘していることです。このイノサントの証言はその決定的な証拠といえるでしょう。

ビリャブリェがいうように、「カリ」がマザーアートであり、エスクリマやアーニスがその分派にすぎないのであれば、エスクリマやアーニスの人間に「エスクリマやアーニスでなくカリを使え。」などというわけがなく、逆にビリャブリェ以外が「カリ」を使えば「分派のエスクリマやアーニスがカリを使うな。」というはずです。「カリ」がマザーアートであるというのが虚構であることが、この証言で証明されました。

「なぜなら、ビリャブリェだけでなく、私の先生のジョニー・ラコステやラッキー・ルカイルカイもカリを使うことに賛成したからだ。」というのには少し驚きました。

それまで私は、ビリャブリェの「カリ」を支持したのは、ラーグサやイノサントのような、フィリピンの歴史や文化を知らない、移民2世や3世の若者たちだと思っていました。アメリカ社会でマイノリティーとして生きるなかで、自分たちのルーツに誇りを持ちたいと思っている彼らが、ビリャブリェの語る「フィリピン古来の武術」「侵略者ラプラプを倒した武術」「スペイン人に1度も屈しなかったモロの武術」という言葉に魅了されたのだと思っていました。

ラコステやルカイルカイが「カリ」に賛成したということは、他にも賛成する多くの1世がいたと思われます。母国の歴史や文化を知る1世なら、ビラブリェの語る「カリ」があやしい作り話だということを知っていたはずなのに、なせ「カリ」を受け入れたのでしょうか。

以前のブログで、サンカルロス大学の人類学者、ホベルス・ベルサレスは「フィリピン人は、失われた過去へのあこがれがある。」と語ったのを紹介しましたが、ラコステやルカイルカイのような武術家も、「失われた過去」にあこがれ、「宣教師に奪われ、彼らのものに取り換えられる前の、英雄的な民間伝承」を求めたのでしょうか。

「1973年には、それらの武術家たちの間で名前について議論となっていた。」についても少し驚きました。武術家たちが名前について考えるようになったのも、イノサントが “The Filipino Martial Arts” を出版したあとのことだと思っていたからです。

イノサントの本の影響で、アメリカ全土に「カリ」が広まるなかで、アメリカ人が、分派の「アーニス」や「エスクリマ」でなく「カリ」を教えてくれと押し寄せるようになったため、多くのマスターたちが道場経営の利便性を考えて「カリ」を使うようになったのは事実です。しかし、それ以前の70年代初頭に、すでに名前をめぐって議論があったことは初耳でした。

「パグカリカリは使うな、カリラドゥマンは使うな、カリロンガンは使うな。」とありますが、先ほど書いたように、これらはヤンバオが地方語の辞書のなかから探し出した、実在しない武術の名前です。イノサントの父がそれらの名前を知っていたことを考えると、アメリカのフィリピン系の間には、すでに70年代初頭にヤンバオの話が普及していたのかもしれません。

または、イノサントの父は同時に「シラットは使うな、クンタオは使うな」ともいっていることから、ヤンバオの話を内包するビリャブリェの話が普及していたのかもしれません。どちらにせよ、そのことが、フィリピン系がビリャブリェの「カリ」を受け入れる下地になっていたことは確かです。

ジョニー・ラコスタやラッキー・ルカイルカイのような1世が、ヤンバオの「カリ」を信じていたのか、信じたかったのかはわかりません。しかし、そのことがイノサントに「カリ」の使用を勧めることにつながり、その結果、世界中に「カリ」が広まりました。そう考えると「カリ」の普及には、ヤンバオ、ビリャブリェ、ラコスタ、ルカイルカイ、イノサントなど、特定の人物に限らず、さまざまな人物が関わっていたことがわかります。

参考資料

  1. Wiley M. V. (2001). Arnis: Reflections on the History and Development of Filipino Martial Arts. MA. Tuttle Publishing.
  2. Canete, C. C. (2009). Eskrima-Arnis Techniques. Cebu City. Cacoy Canete Doce Pares.
  3. Guro Inosanto – Filipino Martial Arts Demo at the Smithsonian. URL: https://www.youtube.com/watch?v=tKKZuS8c7rM. (August. 20. 2023).

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