フィリピン武術家とモロ

スルタン・クダラットの写真 「カリ」についての考察
マニラの中心部、ルネタ公園に設置されている、スルタン・クダラットの胸像

前回と前々回の2回にわたってモロの歴史について説明しましたが、今回は、そのモロの不屈の精神や勇猛さを自分の武術の宣伝に利用した2人の武術家について書いてみます。

フローロ・ビリャブリェとモロ

前回と前々回のブログでは、スペインがフィリピン北部と中部を333年間支配するなかで、スペインに1度も屈することなく戦い続けた、モロの歴史を紹介しました。このミンダナオ・スールーのモロの不屈の精神や勇猛さを自分の武術の宣伝に利用した武術家のひとりが、セブのバンタヤン島出身のフローロ・ビリャブリェでした。

ビリャブリェの語るプロフィールによると、ビリャブリェは、1912年にバンタヤン島で生まれ、14歳のときからおじのレオンシオ・ビジャガノのもとでアーニスを学び始めました。

その後、ビリャブリェは、フィリピン各地を巡って武術の修行をしたそうですが、ビリャブリェのおじのアントニオ・イラストリシモによれば、1940年代初頭には、マニラでイラストリシモやフェリキシモ・ディゾンなどと一緒に「エスクリマ」の練習をしていたそうです。ハワイに移住したのは、太平洋戦争が始まる前のことだと思われます。

ビリャブリェ・ラーグサ・カリの創始者、ベン・ラーグサが、ハワイでビリャブリェに入門した1951年には、ビリャブリェはすでに「カリ」という架空のフィリピン武術を創りあげていました。

それは以下のようなものです。

  • 「カリ」はスペインの侵略者と闘ったフィリピンのモロに古代から伝わる武術である。
  • エスクリマやアーニス、シカラン(フィリピン式キック・ファイティング)、シラット(モロに伝わる徒手格闘術)、クンタオ(モロに伝わる徒手格闘術)などの武術はみな「カリ」から分かれて発展した「カリ」の一部にすぎない。
  • 「カリ」こそが完全な体系をもつ、フィリピンに伝わるすべての武術の源流(マザーアート)である。
  • ビリャブリェは、サマール島で盲目のモロの王女、ジョセフィーナから「カリ」を学んだ。
  • 1933年、ビリャブリェは、友人のフェリキシモ・ディゾンが、モロのダトゥ(首長)、エラリオ・エランと戦って負けると、エランの地元のミンダナオ島に乗り込み、激闘の末、エランに勝った。
  • 当時の試合は、パンチやヒジ打ち、ヒザ蹴り、頭突き、投げ技、締め技などなんでもありの危険なもので、試合は1ラウンド2分で行われ、死人や大けがを負うものが普通に出た。
  • ビリャビリェもエランとの試合で、激戦の末、バヒ・スティックの一撃でエランを絶命させた。

まずは、「フィリピンの武術はすべてカリから分かれた、カリの一部にすぎない。」について検証してみましょう。

シカランは、ルソン島リサール州バラスに伝わる、相手に足を当てれば勝ちといゲームを、1950年代にシプリアーノ・ヘロニモが、日本の空手をとりいれて武術にしたものです。近年まで武術ではありませんでした。

シラットは、マレー半島やスマトラ島に起源をもつ武術であり、クンタオは、その名称が漢字で「拳道」と記されるように、東南アジアに移住した華人の間で練習されていた中国起源の武術です。どれも異なる起源を持ち、「カリ」から分かれた武術ではありません。

「盲目のモロの王女から「カリ」を学んだ。」についてはどうでしょうか。

すでに述べたとおり、1578年のサンデ総督によるブルネイ遠征で、ビサヤ地域のイスラム勢力はすべて一掃されているので、ビリャブリェの時代にはサマール島にモロの王女などいるわけがありません。

実際にはビリャブリェは、地元のバンタヤン島でおじのレオンシオ・ビリャガノから、そしてマニラでおじのアントニオ・イラストリシモから「エスクリマ」を学んでおり、イラストリシモによると、渡米前には「エスクリマ」のインストラクター証も得ているそうです。

後にビリャブリェの創作した話を紹介したダン・イノサントの “THE FILIPINO MARTIAL ARTS” をイラストリシモが読み、ビリャブリェにエスクリマを教えた自分が、アメリカで盲目のモロの王女になっていたことを知って大笑いしたという話がフィリピンに伝わっています。

「1933年、モロのダトゥ(首長)、エラリオ・エランと戦い、激戦の末に勝った。」についてはどうでしょうか。

ビリャブリェによると、当時の試合では、死人や大けがを負うものが普通に出たそうですが、実際のところ当時の試合は殺し合いなどでなく、バハドと呼ばれる、ルールある試合(試し合い)でした。ビリャビリャ自身、当時の試合を説明するときに「パンチやヒジ打ち、ヒザ蹴り・・・」などと過激さを強調しながら、「試合は1ラウンド2分で行われ・・・」と、思わず当時の試合の一般的なルールを語っており、そこからも、デスマッチの正体が単なるバハドであったことがわかります。

「モロに古代から伝わる武術」「盲目のモロの王女」「ミンダナオ島のモロのダトゥ」など、ビリャブリェが巧みに「モロ」を自分の武術の宣伝に使っていたのがよくわかります。

アントニオ・イラストリシモとモロ

ビリャブリェの「盲目のモロの王女」の話を大笑いしたイラストリシモですが、そのイラストリシモも、モロの不屈の精神や勇猛さを自分の宣伝に利用した武術家のひとりです。

アントニオがモロと戦ったデスマッチの話は、以下のようなものです。

  • コルカタにいるときに、シンガポールで、インドネシアのシラットの達人と試合をしないかとのオファーを受けた。
  • 承諾してシンガポールに行くと、会場は5千人もの観客がいるスタジアムだった。
  • イラストリシモがリングに上がるとすぐ、インドネシア人が突進してきた。
  • イラストリシモは、角度を取ってそれをかわし、相手の腕を斬って試合を終わらせた。

もちろん、法治国家のシンガポールで大勢の観客を集めて、刃物で試合をさせるなどありえないことです。この話は、ビリャブリェのデスマッチの話と同様、自分の宣伝のための作り話でしょう。

しかし、作り話はそれだけではありません。イラストリシモの公式プロフィールは、以下のようなことが書かれています。

  • 1904年にセブのバンタヤン島で生まれる。
  • 7歳のときから父とおじのもとでアーニスを学ぶ。
  • 子供のころから、アメリカに行くことを夢見ていた。
  • 9歳のときに小さな船を盗んで、自分で漕いでアメリカを目指した。
  • 着いた港はセブの本島で、そこで大きな船に潜り込みアメリカを目指した。
  • 船が着いた先は、ミンダナオ島のザンボアンガで、そこでホロ島に帰るというモロについていき、船に乗り込んでホロ島に行った。
  • ホロ島につくと、ムハメッドという男が家に招いてくれて、その家にしばらく滞在した後、ホロのスルタンの養子となった。
  • 以後6年間、スルタンの家に住み、イスラム教に改宗し、王子の服装でスルタンの2人の息子と学校へ通った。腰には常に黄金の柄のバロン(モロが好む木の葉形の刀)を差していた。
  • この間に、ペドロ・コステルから、スールーに伝わるブレード・ファイティングを学んだ。
  • コルテスからは、カデナ・リアルやコンバテ・ヘネラル、メジャ・フライルなど、さまざまな技術を学んだ。
  • 15歳のとき、友達と店にビールを買いに行き、ささいなことから、店のなかでその友達とけんかとなった。
  • 相手はバロンを抜いて切りかかってきたが、一瞬で首を切り落とし、首のない体は数歩歩いて倒れた。
  • 警察に逮捕されたが、正当防衛が認められて釈放され、セブに戻った。

イラストリシモはホロ島に行ったのか?

1898年の米西戦争の結果、アメリカがスペインからフィリピンを買い取ると、フィリピン独立派は、1899年1月にアポリナリオ・マビニを首相とする内閣を発足させ、マロロス憲法を制定し、フィリピン共和国の独立を宣言しました。

スペインと戦うために独立派を支援したアメリカですが、権力を手にしたとたん独立を否定したため、1899年2月、独立派とアメリカとの間で戦争(米比戦争)が始まりました。同年3月には首都マロロスが陥落、その後、共和国軍はゲリラ戦に転じるものの、1901年3月にアギナルド大統領が逮捕されアメリカに降伏しました。

しかし、独立派のゲリラ戦は収まらず、フィリピン北部だけでなく、サマール、レイテ、ネグロス、セブなどのビサヤ地域にも拡大し、1910年代初めまで激しい抵抗活動が続きました。

北部での戦争に専念するために、アメリカは1899年8月、スールー王国のスルタン、ハマルル・キラム2世と、キラム・ベイツ条約を結び、スルタンに、支配下のモロのアメリカに対する反抗を抑えることと、スールー王国が中立化を保つことを約束させました。

しかし、北部や中部での抵抗活動が収束してきたことで、アメリカが1904年に条約を破棄すると、スルタンはスールーのすべてのモロにアメリカと戦うように呼びかけ、その後9年間、アメリカに対するゲリラ戦が続きました。

イラストリシモが、ザンボアンガにたどり着いたとされる1913年は、ホロ島ではダトゥ・アミルが率いるモロの戦士がバグサク山に要塞を築き、ジョン・パーシング将軍が率いる米軍第8歩兵、第8騎兵隊と激戦を繰り広げた年です。アメリカがスールーに主権を確立するのは、カーペンター・キラム協定が結ばれた1915年以後のことです。

はたして9歳のイラストリシモが、バンタヤン島からザンボアンガへ、そしてザンボアンガから、紛争中のホロ島に渡れたのでしょうか。また、ムハメッドはなぜ、ホロ島にたどり着いた9歳の家出児童のイラストリシモを親元に送り返さなかったのでしょうか。

スールー王国最後のスルタン、ムハメッド・ハマルル・キラム2世は、このころ王国の存亡をかけて、アメリカとの交渉を必死に繰り広げていた時期でした。そんな時期に、名門のキラム家が素性も知れない家出児童のイラストリシモを養子にするでしょうか。

イラストリシモの公式プロフィールでは「スルタンの養子となり、2人の息子と学校に通った。」とのことですが、ウィキペディア(英語版)の “Jamalul Kiram II” によると、1936年にキラムがマインバンの邸宅で亡くなったとき、「彼には息子がいなかったため、7人の娘がいたものの、イスラム法により後継者を指名できなかった。」と書いてあります。

さらに、「ペドロ・コステルから、スールーに伝わるブレード・ファイティングを学んだ。」とのことですが、どうしてスールーに伝わるブレード・ファイティングの技術用語がモロの言葉ではなく、カデナ・リアルやコンバテ・ヘネラル、メジャ・フライルのようなスペイン語なのでしょうか。(これはビリャブリェの「カリ」にもいえることです。)

プロフィールについての疑問は尽きません。

モロへのあこがれ

サンカルロス大学のホベルス・ベルサレスは、”Cebu Daily News” のコラムで「フィリピン人は植民地化されたことで、自分たちの過去の文化を消し去られ、スペインのものに書き換えられてしまった。」「そのため、近隣国のボロブドゥール寺院のような、黄金の過去に対するあこがれがある。」と語っています。

フィリピンの武術家が、フィリピン武術のルーツをシュリービジャヤやマジャパイトに結び付けようとするのはそのためであり、フィリピンにスペイン人到来以前に「カリ」という武術があったと信じる(信じようとする)のもそのためです。

モロの民族衣装を着るイラストリシモ。皮肉なことに、彼のアーニスは、どの流派よりもスペイン剣術の名残を強く残していた。

ビリャブリェやイラストリシモが自分の武術をモロと結び付けようとしたのも、これと似たような理由だといえます。彼らはモロの強さや勇猛さに対するあこがれがあったのでした。

北部・中部のフィリピン人がスペインの支配に容易に屈し、彼らの宗教や文化を受け入れるなか、スペインの侵略を繰り返し撃退し、スペインに一度も屈することのなく、自分たちの宗教や文化、国家を守り続けた南部のモロの歴史はフィリピンの誇りであり、クリスチャン・フィリピノにとってはあこがれでもありました。

スペインに一度も負けることのなかったマギンダナオ王国最盛期の王、スルタン・クダラットは、キリスト教徒が多数を占めるフィリピンにおいても英雄とされています。

アメリカ兵に何発も銃弾を撃ち込まれながらも、立ち上がり、死ぬまで戦った不屈のモロの精神は、武術家であるビリャブリェやイラストリシモにとってあこがれだったでしょう。彼らが「モロ武術」や「モロに勝った」とアピールすることで、自分の武術に箔をつけようしたのも理解できないことではありません。

参考資料

  1. Great Grandmaster Floro Villabrille. Villabrille – Largusa Kali System. Augsto. 18. 2023. URL: https://villabrillelargusakali.com/about-2/grandmaster-floro-villabrille.
  2. Wiley M. V. (1997). Filipino Martial Culture. MA. Tuttle Publishing.
  3. 池端雪浦 編集(1999)「東南アジア史Ⅱ 島嶼部」 山川出版社。
  4. Jamalul Kiram II“『フリー百科事典 ウィキペディア英語語版』。2023年8月23日17時 (日本時間) 、URL: https://en.wikipedia.org/wiki/Jamalul_Kiram_II.
  5. 大嶋良介(2013)「公開!フィリピン武術の全貌」東邦出版。

コメント

タイトルとURLをコピーしました