武術禁止令は本当にあったのか?

プラシド・ヤンバオの写真 「カリ」についての考察
"Mga Karunungan sa Larong Arnis" の中でエスパダ・イ・ダガを演武する、プラシド・ヤンバオ(右)

今回は「フィリピン古来の武術・カリ」同様に海外で広く信じられている、スペインによる「武術禁止令」について書いてみます。

この禁止令により「エスクリマ」や「アーニス」が生まれたという説が、今も海外で広く語られているので、その事実を検証してみたいと思います。

武術禁止令の原型

前回のブログで検証した「カリ」伝説は、ダン・イノサントによって世界中に広められたものですが、その伝説のルーツはイノサントの師、フローロ・ビラブリェにあります。そして、そのビリャブリェの「カリ」のルーツは、「カリ」という言葉を「フィリピン古来の武術」として世界で最初紹介した、パンパンガ出身の武術家、プラシド・ヤンバオでにあります。

ヤンバオは、1958年に世界で最初のアーニスの教本 “Mga Karunungan sa Larong Arnis”(アーニス競技の知識)を出版しましたが、そのなかでヤンバオが書いたアーニスの歴史が、ビリャブリェやイノサントをはじめ、その後のフィリピン武術家たちが語る、フィリピン武術像の原型となりました。

ヤンバオが書いたことをまとめると、以下のようになります。

  • フィリピンにはスペイン人到来前に「カリ」呼ばれる武術があった。
  • フィリピン人はスペインの侵略者、レガスピを最初は歓待したが、そのときレガスピに披露したダンスは、実は「カリ」であった。
  • スペインがフィリピンを統治するようになると、スペイン人は、コメディヤという演劇を普及させ、特に「モロモロ」という、キリスト教のイスラム教に対する優越性を訴える演目を好んで演じさせた。
  • フィリピン人はみなこのコメディヤに熱狂した。
  • 1764年、フィリピン総督のシモン・デ・アンダ・イ・サラザールは、フィリピン人がスポーツの練習や余暇活動をすることを禁止した。
  • その理由は、フィリピン人がモロモロなどの娯楽に熱狂しすぎて、農作業を怠るようになるからである。
  • この禁止令が出ると、フィリピン人は、コメディヤの戦闘シーンの練習を装って、スペイン人に気づかれないように「カリ」の練習をした。

ヤンバオによると、アンダがスポーツや余暇活動を禁じた別の理由に、フィエスタや祝い事の余興で行われるアーニスの試合で、酔っぱらったり、周りにあおられた武術家同士が、死ぬまで戦うことを心配したこともあるそうです。また、これに合わせてフィリピン人が刃物の武器を持ち歩くことも禁止したと述べています。

私がこの武術禁止令の話を知ったとき、空手の成立の歴史を思い起こしました。「薩摩藩に武器を取り上げられた琉球の士族が、薩摩藩の武士と戦うために、ひそかに素手の武術をあみ出した。」という話です。

この空手誕生の歴史については、当時すでに専門家からいくつも疑問点が挙げられていましたが、このフィリピンの武術禁止令についても、調べてみると、疑問点がいくつも出てきました。

武術禁止令の最終形態

イノサントが “The Filipino Martial Arts” で紹介した「カリ」の話が、時代が進むにつれて尾ひれがついて変化したのと同じく、ヤンバオの話も、時代とともにさまざまなバリエーションが出てきました。

以下例をあげてみます。

ダン・イノサント “The Filipino Martial Arts” 1980年

  • スペインがフィリピンの支配を確立すると、フィリピン人が武術の練習をすることは統治の邪魔になるため禁止された。
  • スペイン人は、フィリピン人のダンスを好み、ダンスの公演は許可した。
  • フィリピン人は、ダンスのなかに「カリ」の動きを取り入れ、スペイン人の目の前で禁止された武術を練習していた。

ドン・ドレガー “Comprehensive Asian Fighting Arts” 1981年

  • 16世紀から17世紀にかけて、武術の技術は大きく発展し、システム化された武術の動きを、実際に敵と戦うことなく練習できるよう、武術の動きをダンスのなかに入れた。
  • パナイ島のイロイロのダンス、シヌログや、ザンバレスのビナバヤニは武術の動きを含むダンスである。
  • カリはスペイン人到来以前から、各部族で秘密に練習されていた。
  • スペイン人到来後は、スペイン人に気づかれないように、コメディヤの戦闘シーンの練習を利用して練習が行われた。

マーク・ワイリー “Filipino Martial Culture” 1997年

  • 1764年、アンダ総督は、スペインに対する反乱を防ぐため、フィリピン人が刃物の武器を振り回すことを禁止した。
  • その法令によって「カリ」の武器は、刃物から木製の代用品に代わった。
  • 武器が木製になったことで、武器をぶつけるようにして相手の攻撃を受ける技術や、相手の武器を握ってコントロールする技術が生まれた。
  • これらにスペイン式のエスパダ・イ・ダガやナンバリングなどのシステムを取り入れて「カリ」は「エスクリマ」となった。

クリシナ・ゴッドハニア “Eskrima Filipino Martial Art” 2010年

  • スペインは、フィリピン人が刃物の武器を持ち歩くことを禁止し、これにより武術家は隠れて武術の練習をするようになった。
  • 武器が刃物からラタン・スティックになり、技術が大きく変化した。
  • 秘密を守るため、武術家は、家族や厳選した弟子にのみ技術を伝えるようになった。

今も多くのバリエーションが語られていますが、どれにも共通するのは以下の3つの点です。

  • フィリピンにはスペイン人到来以前に「カリ」と呼ばれる武術があった。
  • 1764年、アンダ総督はフィリピン人の反乱を防ぐため、武術の練習と刃物の武器の所持を禁止した。
  • その結果「カリ」の練習は、コメディヤやダンスの練習を装って行われるようになった。

武術禁止令の検証

どの話にも共通する、「武術の練習や刃物の武器の所持の禁止」と、「練習はコメディヤやダンスの練習を装って行われる」ことについて検証してみましょう。

スペインがフィリピン人の反抗に悩まされていたのは事実ですが、だからといって武術の練習を禁止したというのはあり得ない話です。スペインはフィリピン人の反抗以上に、毎年季節風を利用してフィリピン中部や北部の沿岸部を襲撃する、南部のモロ(イスラム教徒)の海賊に悩まされていたからです。

モロの海賊は、多い時には40~50隻で船団を組み、中部、北部の沿岸部を襲撃し、住民をさらって奴隷にしましたが、これに対してスペインはなす術がありませんでした。

そのため、スペインは教区司祭を通じて沿岸部の住民を動員し、見通しの良い場所に見張り台やのろし台を築かせ、教会を避難場所にし、住民に武術の訓練を施して海賊に対抗したのでした。今でもフィリピン各地の沿岸部には、そのとき設置したバンタヤン・サ・ハリ(見張り台)の遺跡が残っています。

また、スペインは、モロの住む南部のミンダナオ島やスールー諸島を征服するため、常にフィリピン人の兵士を募集し、訓練していました。1751年12月21日には、モロと戦うビサヤ人の貢税を免除したり、モロ討伐に志願する犯罪者に恩赦を与える法令にフィリピン総督がサインをしています。武術の練習を禁じるはずがありません。

歴史学者のドミンゴ・M・ノンは、”Moro Piracy during the Spanish Period and Its Impact” のなかで「スペインの政策で、フィリピン人は、いかなる形式の武器も持ち歩くことが禁止され」と述べています。しかし、農作業で使うボロのような、片手で操る短い刃物を禁じることは無理なことなので、禁じたとしたらそれは、銃火器や弓などの戦争用の武器だったと思われます。

薩摩藩による禁武政策で武器を取り上げられたといわれる琉球でも、実際に取り上げられた武器は銃火器であり、刀は海賊から身を守るために持ち歩きを許されていたそうです。そう考えると、フィリピンでも、モロの海賊から身を守るための刀まで携帯が禁止されたとは思えません。

フィリピン大学の人類学の教授でエスクリマドール(アーニスの使い手)でもあるフェリペ・ホカノは、”FMA TALK LIVE” の “Pinoy Culture and FMA” のなかで武術禁止令について触れ、スペインが、フィリピン人の武器の携帯を禁止した話について「銃火器を独占していたスペインが、フィリピン人の刃物を恐れるわけがない。」と語り、この話に疑問を呈しています。

また、武術禁止令を出したといわれるアンダが、1773年12月15日にタヤバス州で民兵団を組織することを承認していることからも、武術の練習や刃物の持ち歩きが禁じられたとはとても思えません。

(動画)モロモロの戦闘シーン

コメディヤの練習を装って「カリ」の練習したという話はどうでしょうか?

歴史家のロサリオ・メンドーサ・コステルは、 “Pangasinan 1572-1800” のなかで、スペイン統治時代はダンスと飲酒は厳しく規制されており、どのような形式や機会でもダンスの公演には知事の許可が必要だったと書いています。

また、前述のホカノはヤンバオの話について「余暇を禁止したのに、モロモロのなかでカリを練習したというのはおかしな話だ。」とその矛盾点を指摘しています。

これらの状況を考えると、コメディヤの練習を装って武術の練習をすることや、武術の動きを隠してダンスを練習することなどなかったでしょう。練習する機会がほとんどなかったからです。

なによりも、武術の練習が禁止されていないのに、武術の練習をするためにコメディヤの練習やダンスの練習をするなどありえない話です。

スペインがフィリピン人の武器の持ち歩きを禁止し、ダンスや飲酒を規制したのは事実ですが、このことからヤンバオは、刀の所持を禁止し、さらには、アーニスの演武や試合が宴会の余興などで行われていたことから、武術の練習も禁止したと誤解したのかもしれません。

しかし、ヤンバオが創作したこの「武術禁止令」の話は、「フィリピン古来の武術『カリ』」とともに、多くの武術家が信じる事実となり、今もフィリピン武術の実像を歪め続けています。

参考資料

  1. Galang, R. (2004). Classic Arnis. NJ. Arjee Enterprises.
  2. Inosanto, D. & Johnson, G. (1980). The Filipino Martial Arts. CA: Know Now Publications.
  3. Draeger, D. F. (1981). Comprehensive Asian Fighting Arts. Tokyo, Japan. Kodansha.
  4. Wiley M. V. (1997). Filipino Martial Culture. MA. Tuttle Publishing.
  5. Godhania, K. (2010). Eskrima: Filipino Martial Art. Wiltshire, EN. Crowood Press.
  6. Nepangue, N. R. (2007). Cebuano Eskrima: Beyond the Myth. IN. Xlibris Corporation.
  7. Wiley M. V. (2001). Arnis: Reflections on the History and Development of Filipino Martial Arts. MA. Tuttle Publishing.
  8. Non, Domingo M. (1993). Moro Piracy during the Spanish Period and Its Impact. Kyoto University Research Information Repository. URL: http://hdl.handle.net/2433/56477.
  9. ビットマン ハイコ. 空手道史と禁武政策についての一考察 -琉球王国尚真王期と薩摩藩の支配下を中心に-. 金沢大学留学生センター. 2014, 3, URL: https://kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=31385&file_id=26&file_no=1.
  10. FMA TALK LIVE “Pinoy Culture and FMA“. URL: http://www.fmatalklive.com/2012/09/fmatalk-live-pinoy-culture-and-fma-with.html. (September. 5. 2012).
  11. Mallari, P. G. Did the Spaniards Really Ban the Filipino Martial Arts (FMA)?. FMA pulse. July. 21. 2009. URL: https://fmapulse.com/fma-corner/fma-corner-did-spaniards-really-ban-fma/.

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