フローロ・ビリャブリェ

バンタヤン島の写真 マスター
フローロ・ビラブリェの故郷、バンタヤン島

今回は、「カリ」を創始した武術家で、現代の人びとが抱くアーニス像を作った、フローロ・ビリャブリェを取り上げてみます。

ビリャブリェの武勇伝は、イノサントの著書を通じて世界中に広まり、偉大な武術家としてその名を知られるようになりました。その話の事実について検証してみたいと思います。

ビリャブリェの武勇伝

フローロ・ビリャブリェを最も有名にしたのは、弟子のダン・イノサントであることに間違いはないでしょう。イノサントは “The Filipino Marial Arts” のなかで、ビリャブリェを「フィリピン武術の世界で、最も尊敬を集める、不敗のエスクリマとカリのチャンピオン」と紹介し、イノサントの本でフィリピン武術を知った読者はそれを本気で信じたからです。

イノサントの本に書かれたビリャブリェをまとめると以下のようになります。

  • フィリピンとハワイのエスクリマとカリの試合で無敗を誇った。
  • 当時の試合はパンチ、キック、ヒジ打ち、ヒザ蹴り、頭突き、投げ技、締め技などなんでもありで、死者や大けがを負うものが当たり前に出た。
  • 試合は1ラウンド2分、インターバル1分で行われた。
  • ビリャブリェは、14歳から武術の練習を始め、フィリピン各地を回って修行した。
  • サマール島のグンダラで、盲目のモロの王女、ジョゼフィーナから「カリ」を学んだ。
  • 船員として働いていた18歳のときに、友人のフェリキシモ・ディゾンがモロ(イスラム教徒)の若い武術家と戦って負けたとの電報を受けた。
  • フィリピンに戻ると、友人たちに戦いをやめるよう忠告されたが、その忠告を無視してモロの武術家とデスマッチを戦った。
  • モロの武術家との戦いは苦戦したが、辛くも5ラウンドで勝利した。
  • デスマッチを観戦していたフランク・マーフィ総督は、戦いが終わると、ビリャブリェにグランドマスターの証書を授与した。
  • その証書はビリャブリェの写真とともに、セブ市立(州立)博物館のラプラプの画の横に飾られている。

ビリャブリェの弟子のベン・ラーグサが創始したビリャブリェ・ラーグサ・カリのウェブサイトには、デスマッチについてさらに詳しい情報が書かれているので、その部分を補ってみます。

  • オーストラリアで船員をしていたとき、友人のディゾンが、ミンダナオ島のモロのダトゥ(首長)、エラリオ・エランと戦って負けたとの電報を受けた。
  • 1933年7月4日、ビリャブリェは死を覚悟してエランの地元のミンダナオ島に行き、デスマッチを戦った。
  • エランはシラット・クンタオの専門家だったが、激戦の末、ビリャブリェのバヒ・スティックがエランの首を直撃し、エランは即死した。
  • デスマッチの終りに、フランク・マーフィー総督はビリャブリェにグランドマスターの証書を授与した。
  • マクタン市立博物館では、フランク・マーフィー総督から授与された証書が、ラプラプの像の隣に掲げられている。

親類への聞き取り調査

フローロ・ビリャブリェのいとこ、ロット・ビリャブリェ(右)からアーニスの指導を受ける著者

私は、2013年10月に、フローロ・ビリャビリェの生まれ故郷のセブのバンタヤン島を訪れました。目的は、スペイン統治時に築かれたスペイン軍の要塞、マドリデホスを見学することと、地元の武術家、ロット・ビリャブリェにインタビューし、ロットからアーニスを教わることでした。

ロット・ビリャブリェの父、ウルダリコはフローロ・ビリャブリェの父、ベアトの弟で、ロットはフローロのいとこに当たります。また、フローロは、イラストリシモ・エスクリマのグランドマスター、アントニオ・イラストリシモの甥に当たりますが、ロットのアーニスの師のアルセニオ・アロンタガは、アントニオのトレーニング・パートナーでもありました。

ロットによると、フローロもアントニオも、この島の人間はみな、「ジャベ・カデナ」と「ギヌンティン」の2つのスタイルのアーニスを学んでいるそうです。(巷でいわれているような、「イラストリシモ家には、家伝のリペティションというスタイルが伝わっていた。」という話は事実ではありませんでした。)

また、フィリピン武術研究家のマーク・ワイリーがアントニオ・イラストリシモに行った聞き取り調査では、1940年代初頭にイラストリシモはマニラに移住し、日中はトンドの港で働き、夜はトンドの埠頭でフェリキシモ・ディゾンやアントニオ・メルカドとアーニスの練習をしていましたが、しばらくしてフローロ・ビリャブリェもこのグループに加わり、おじのイラストリシモからアーニスを学んだそうです。

ビリャブリェの真実

フローロが「エスクリマとカリの試合で無敗を誇った。」という話ですが、いとこのロット・ビリャブリェに聞いたところ「1930年代にハワイでアーニスのチャンピオンになっている。」とのことなので、無敗かどうかはわかりませんが、ハワイでチャンピオンになったという話は事実であり、強い武術家であったようです。

ただし、「試合はなんでもありで、死者は大けがを負うものが当たり前に出た。」というのは事実ではなく、当時の試合は「デスマッチ」ではなく、バハドとよばれる「チャレンジマッチ」(腕試しの試合)であり、ルールはありました。

ビリャブリェが語った、「試合は1ラウンド2分、インターバル1分」というのは、当時のバハドの標準的なルールであり、これこそが「死者は大けがを負うものが当たり前」のデスマッチなどではなく、普通の試合であった証拠だといえます。

「サマール島のグンダラで、盲目のモロの王女、ジョゼフィーナから「カリ」を学んだ。」という話については、スペインがフィリピンを統治するとすぐに、北部と中部のイスラム勢力は一掃されたため、ビリャブリェの時代にサマール島にイスラムの王権などあるはずがありません。また、モロの王女の名前がジョゼフィーナなどという西欧式の名前であるはずもありません。

アントニオ・ディエゴとクリストファー・リケットの著書 “The Secrets of Kalis Ilustrisimo” には、イノサントの 本を読んだイラストリシモが、本のなかで、ビリャビリェにアーニスを教えた自分がモロの王女になってるのを知り、数分間大笑いしたという話が記されています。

モロとの戦いは本当にあったのか?

「18歳のとき、友人のフェリキシモ・ディゾンがモロの武術家と戦って負けた。」「1933年7月 4日に、ミンダナオ島出身のモロ・ダトゥ(首長)、エラリオ・エランと戦った。」「ビリャブリェのバヒスティックがエランの首を直撃し、エランは即死した。」という話についてですが、これには類似した話がイラストリシモにもあります。

1997年にマーク・ワイリーが出版した ”Filipino Martial Culture ” には、船員だったイラストリシモがコルカタにいたときに、シンガポールでインドネシアのシラットの達人と試合をしないかとのオファーを受けた話があります。

イラストリシモが承諾してシンガポールに行くと、会場は5千人もの観客がいるスタジアムでした。イラストリシモがリングに上がると、インドネシア人はいきなり突進してきましたが、イラストリシモは、角度をとって攻撃をかわし、相手の腕を斬り、戦えなくなったインドネシア人は降参したそうです。

ただし、1993年にエドガー・スリティが出版した “Master of Arnis Kali & Eskrima” のなかのイラストリシモに行ったインタビューでは、「相手がリングに上がり、私を見ると、すぐにリングから降り、2度と戻ってこなかった。」とイラストリシモは語っています。(わずか数年で話が膨らんでいることがわかります。)

どちらにせよ、法治国家のシンガポールで、大勢の人を集めて、刀で戦うデスマッチなど行われるわけがないのですが、それはさておき、この話がビリャブリェの話とよく似ていることがわかります。

フェリキシモ・ディゾンの孫弟子に当たるマーク・ワイリーは著書 “Filipino Martial Arts: cabales serrada Eskrima” のなかでビリャブリェの試合の話について、「マスター・ディゾンは、スポーツの試合はしない。」「もしモロの武術家に負けているのなら、70年代まで生きているはずはない。」「ビリャブリェとモロの武術家との試合などはなかった。」「これはマスター・ディゾンが死んだあと、ビリャブリェが名を売るために作った作り話だ。」と断定しています。

ワイリーは優秀なフィリピン武術研究家ですが、当時のバハドについてはあまり詳しくないようです。バハドは、生きるか死ぬかの殺し合いではなく、ルールのあるスポーツでした。スペイン統治時代にあった決闘は、アメリカ統治時代の1932年に、刑法が改正されたことで禁止され、決闘で人を殺せば殺人罪になったからです。

私の推測ですが、この話の原型ははおそらく、1940年代初頭、ディゾン、イラストリシモ、ビリャブリェがマニラで一緒に練習していたころにあるのだと思います。ビリャブリェかイラストリシモが航海中に、ディゾンが誰かと試合をして敗れ、その相手をビリャブリェまたはイラストリシモが負かしたのではないのでしょうか。その話をビリャブリェもイラストリシモも、自分の名前を売るために、思いっきり膨らましたのだと思います。

ただし、相手はモロの武術家だったとは思えません。「南部のモロに伝わる武術『カリ』」(イノサント・ビラブリェ説)や「盲目のモロの王女から『カリ』を学んだ。」(ビリャビリェの公式プロフィール)、「ホロ島でスルタン・ムハメッドの養子になった。」(イラストリシモの公式プロフィール)、「ホロ島でスールーに伝わるでブレード・ファイティングを学んだ」(イラストリシモの公式プロフィール)など、ビリャブリェもイラストリシモも「モロ」が大好きだからです。大好きな「モロ」を自分の創作した話に登場させたかったのでしょう。

「1933年7月4日、デスマッチの終りに、フランク・マーフィー総督が、ビリャブリェにグランドマスターの証書を渡した。」という話については、その真偽はわかりません。

ただし、フランク・マーフィーがフィリピン総督に就任したのは1933年7月15日であり、デスマッチの時点では総督ではありません。また、就任式直前の忙しいマーフィが、アーニスのデスマッチを観戦するためにミンダナオ島まで行くとは思えません。また、そこで刑法に違反する殺人が行われたとしたら、その犯人にグランドマスターの証書を授与するなどとても考えられません。

「その証書は、セブ州立(市立)博物館(またはマクタン市立博物館)のラプラプの画(または像)の横に飾られている。」についてはどうでしょうか?

googleで調べるかぎり、マクタン市には公立博物館はありませんが、セブ市には公立のムセオ・スグボとセブ・シティ・ミュージアムがあります。どちらかの博物館にビラブリェのグランドマスターの証書があるのでしょうか?あればぜひ見てみたいです。

ビリャブリェが創作した、「モロに伝わる武術」や「死人が出るデスマッチ」などは、いまだに多くの武術家が信じて疑いません。研究家のマーク・ワイリーですら「デスマッチ」を信じてるぐらいです。ビリャブリェの(イラストリシモもですが)宣伝のうまさには本当に感心します。

参考資料

  1. Inosanto, D. & Johnson, G. (1980). The Filipino Martial Arts. CA: Know Now Publications.
  2. Ben Largusa – A Simple Man of Kali. Villabrille – Largusa Kali System. Augsto. 18. 2023. URL: https://villabrillelargusakali.com/ben-largusa-a-simple-man-of-kali/ben-largusa-a-simple-man-of-kali
  3. Great Grandmaster Floro Villabrille. Villabrille – Largusa Kali System. Augsto. 18. 2023. URL: https://villabrillelargusakali.com/about-2/grandmaster-floro-villabrille
  4. Wiley M. V. (2001). Arnis: Reflections on the History and Development of Filipino Martial Arts. MA. Tuttle Publishing.
  5. Diego, A. & Ricketts, C. (2002). The Secrets of Kalis Ilustrisimo: The Filipino Fighting Art Explained. MA. Tuttle Publishing.
  6. Wiley M. V. (1994). Filipino martial Arts Cabales Serrada Eskrima. MA. Tuttle Publishing.

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